週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

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第二百二十八段 千本の釈迦念仏は
 千本の釈迦念仏(シヤカネンブツ)は、文永(ブンエイ)の比、如輪(ニヨリン)上
 人、これを始められけり。
 
 ※
 千本の釈迦念仏は、文永の頃、如輪上人が、始めた事だ。
 
 ※
 「ご隠居はん、これもまた由来のお話です。」
 「この時期いろんなものの始まりが有るけれど、時代背景も影響しているのかもね。」
 「激動の時代にはいろいろなものが生まれるのですね。」
 
 千本の釈迦念仏:大報恩寺で行われる真言宗の行事。
 文永:1264-1275年まで。この時期有名な出来事は元寇、文永の役(1274年)です。
 如輪上人:大報恩寺二世。
 
 大報恩寺
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A0%B1%E6%81%A9%E5%AF%BA
 活速祭(こちらも関係ありそうですが...)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E9%80%9F%E7%A5%AD
2010/10/09(Sat)

第二百二十七段 六時礼讃は、
 六時礼讃(ロクジライサン)は、法然上人(ホフネンシヤウニン)の弟子、安楽(アン
 ラク)といひける僧、経文(キヤウモン)を集めて作りて、勤(ツト)めにしけり。そ
 の後、太秦善観房(ウヅマサノゼンクワンボウ)といふ僧、節博士(フシハカセ)を定
 めて、声明(シヤウミヤウ)になせり。一念(イチネン)の念仏の最初なり。御嵯峨院
 (ゴサガノ)の御代(ミヨ)より始まれり。法事讃(ホフジサン)も、同じく、善観房
 始めたるなり。
 
 ※
 六時礼讃というものは、法然上人の弟子、安楽という僧が、経文を集めて作り、広めた
 ものだ。その後、太秦善観房という僧が、節を決めて、声楽とした。これが一念の念仏
 の始まりだ。後嵯峨院の頃の事だ。法事讃も、同じく、善観房が作ったのだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、これは批判なのでしょうか。」
 「そうかもしれないね。」
 「普及させるために時代とともに変化するのですか。まるで流行歌を作るような...」
 「そういうところも批判される原因なのかもね。」
 
 六時礼讃:浄土宗の法要の一つ。一日を六つに区切り、念仏を唱えるそうです。
           安楽が処刑されたのは1207年頃ですからその頃にはすでにできていた。
      後嵯峨院の御代は1242-1246年頃。この頃に節ができたというお話しです。
 
 法然上人:1133-1212。浄土宗の開祖。第三十九段では批判している風でも無い。
 http://bbs.mail-box.ne.jp/ture/index.php?page=4#39
 
 法事讃:浄土宗の法要の一つ。
2010/10/02(Sat)

第二百二十六段 後鳥羽院の御時
 後鳥羽院(ゴトバノヰン)の御時(オントキ)、信濃前司行長(シナノノゼンジユキナ
 ガ)、稽古(ケイコ)の誉(ホマレ)ありけるが、楽府(ガフ)の御論議(ミロンギ)
 の番(バン)に召されて、七徳(シチトク)の舞(マイ)を二つ忘れたりければ、五徳
 (ゴトク)の冠者(クワンジヤ)と異名(イミヤウ)を附きにけるを、心憂き事にし
 て、学問を捨てて遁世(トンゼイ)したりけるを、慈鎮和尚(ヂチンクワシヤウ)、一
 芸(イチゲイ)ある者をば、下部(シモベ)までも召し置きて、不便(フビン)にせさ
 せ給ひければ、この信濃入道を扶持(フチ)し給ひけり。
 
 この行長入道、平家物語(ヘイケノモノガタリ)を作りて、生仏(シヤウブツ)といひ
 ける盲目(マウモク)に教へて語らせけり。さて、山門(サンモン)の事を殊にゆゝし
 く書けり。九郎判官(クラウハングワン)の事は委(クハ)しく知りて書き載せたり。
 蒲冠者(カバノクワンジヤ)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記(シル)
 し洩らせり。武士の事、弓馬(キウバ)の業(ワザ)は、生仏、東国(トウゴク)の者
 にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生(ウマ)れつきの声を、今の琵琶
 (ビハ)法師は学びたるなり。
 
 ※
 後鳥羽院の時代の事、信濃の前国司である行長は、高い学識を買われたのだが、漢詩の
 朗読会に出演したとき、七徳の舞のうち二つを忘れてしまったことで、五徳の冠者とあ
 だ名を付けられ、それを苦にして、学問を捨て出家してしまったところ、慈鎮和尚が、
 才能のある者で、部下も居るのに、このままでは惜しいと思われ、この信濃入道の面倒
 をみる事にした。
 
 この行長入道は、平家物語を作り、生仏という盲目の者に教えて語らせた。比叡山の事
 は特に立派に書いている。義経の事は良く知っていて詳しく書いている。範頼の事はあ
 まり知らないのか、多くの事を書き洩らしている。武士の事、戦の仕方については、生
 仏が、東国の生まれであったことから、武士に取材して書いたそうだ。この生仏の地声
 を、今の琵琶法師は真似ているということだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、平家物語、作者不詳。」
 「兼好の時代には、この人だと考えられていたのだろうかね。」
 「比叡山については良く書き過ぎって、思うところが有るのですね。」
 「あるのだろうね。」
 
 冠者:無官の人という意味。そう言われると結構きついな。
 九郎判官:源義経(1159-1189)のこと。
 蒲冠者:源範頼(1150?-1193)のこと。頼朝の弟、義経の兄。
2010/09/25(Sat)

第二百二十五段 多久資が申しけるは
 多久資(オホノヒサスケ)が申しけるは、通憲入道(ミチノリニフダウ)、舞(マヒ)
 の手の中(ナカ)に興(キョウ)ある事どもを選びて、磯(イソ)の禅師(ゼンジ)と
 いひける女に教へて舞はせけり。白き水干(スヰカン)に、鞘巻(サウマキ)を差さ
 せ、烏帽子(エボシ)を引き入れたりければ、男舞(ヲトコマヒ)とぞ言ひける。禅師
 が娘(ムスメ)、静(シヅカ)と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子(シラビヤ
 ウシ)の根元(コンゲン)なり。仏神(ブツジン)の本縁(ホンエン)を歌ふ。その
 後、源光行(ミツユキ)、多くの事を作れり。御鳥羽院の御作(ゴサク)もあり、亀菊
 (カメギク)に教へさせ給ひけるとぞ。
 
 ※
 多久資によると、通憲入道が、多くの踊りの中から興味のあるものを選んで、磯の禅師
 とかいう女性に教えて踊らせた。白い水干を着て、鞘巻を腰に差し、烏帽子をかぶせ
 て、男舞と呼んでいた。禅師の娘、静が、この芸を継いだそうだ。これが、白拍子の始
 まりだそうだ。仏や神の由来を歌う。その後、源光行が、多くの物語を作った。御鳥羽
 院の御作もあり、亀菊に教えたそうだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、やりたい放題ですね。」
 「まぁいろんな芸術は、こうやって生まれたという事だね。」
 「知らないほうがいい事もありますね。」
 
 多久資:宮廷音楽家、とでも言えばいいのかな。
 通憲入道:藤原通憲(1106-1160)のこと。学者、政治家。
 磯の禅師:讃岐国小磯出身の舞姫。
 水干:狩衣の一種で下級官吏などが着ている服。第二百二十一段にも出てきた。
 鞘巻:鍔の無い短刀。
 烏帽子:カラス色の帽子。
 静:静御前のこと。
 白拍子:歌舞あるいはそれを踊る遊女のこと。
 源光行:みなもとのみつゆき(1163-1244)文学者、歌人。
 亀菊:御鳥羽院が寵愛した白拍子。
2010/09/18(Sat)

第二百二十四段 陰陽師有宗入道
 陰陽師有宗入道(オンヤウジアリムネニフダウ)、鎌倉より上(ノボ)りて、尋(タ
 ヅ)ねまうで来りしが、先づさし入りて、「この庭のいたすらに広きこと、あさまし
 く、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植(ウ)うる事を努(ツト)む。細道(ホソ
 ミチ)一つ残して、(ミナ)皆、畠(ハタケ)に作り給へ」と諌(イサ)め侍りき。
 
 まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益(ヤク)なき事なり。食ふ物・薬
 種(ヤクシユ)など植ゑ置くべし。
 
 ※
 陰陽師である有宗入道が、鎌倉より上京し、訪ねてきたのだが、敷地に入るなり、「こ
 の庭の無駄に広いのは、みっともないし、このままではいけない。道に志す者ならば、
 植物を育てる事に力を尽くす。細道を残して、他は全部、畑に作り替えなさい。」と忠
 告された。
 
 まことに、少しの土地でも無駄に放置しては、もったいない。作物や薬草などを植える
 こととしよう。
 
 ※
 「ご隠居はん、キャッシュフロー経営ですね。」
 「なんのこっちゃ。」
 「遊休地を寝かさず上手に使って利益を生み出す。」
 「勝手にゆうてなさい。」
 
 有宗入道:安倍有宗のこと。安倍晴明の子孫。
2010/09/11(Sat)

第二百二十三段 鶴の大臣殿は
 鶴(タヅ)の大臣殿(オホイトノ)は、童名(ワラハナ)、たづ君(ギミ)なり。鶴を
 飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ヒガコト)なり。
 
 ※
 鶴の大臣殿は、幼名、たづ君といった。鶴を飼っていたからとするのは、間違いだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、こういう昔の話が出てくるのは、書物か何かに書かれていたという事で
 しょうか。」
 「どうだかわからないけれど、物事の由来というのは調べてみると興味深い物があるよ
 ね。」
 
 
 鶴の大臣殿:九条基家のこと。詳しくはウィキペディアで。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%9F%BA%E5%AE%B6
 
 100年近い昔の話を書いたきっかけは何だったのだろう。
2010/09/11(Sat)

第二百二十二段 竹谷乗願房
 竹谷乗願房(タケダニノジヨウグワンボウ)、東二乗院(トウニデウノヰン)へ参られ
 たりけるに、「亡者(マウジヤ)の追善(ツヰゼン)には、何事か勝利(シヨウリ)多
 き」と尋(タヅ)ねさせ給ひければ、「光明真言(クワウミヤウシンゴン)・宝篋印陀
 羅尼(ホウケウインダラニ)」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給
 ひけるぞ。念仏(ネンブツ)に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しけれ
 ば、「我(ワ)が宗(シユウ)なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名
 (ショウミャウ)を追福(ブク)に修(シユ)して巨益(コヤク)あるべしと説ける経
 文を見及ばねば、何に見えたるぞと重(カサ)ねて問はせ給はば、いかゞ申さんと思ひ
 て、本経(ホンギョウ)の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」と
 ぞ申されける。
 
 ※
 竹谷の乗願房が、東二条院にお会いした時、「死者を供養するには、何をするのが一番
 よいのだろうか」と尋ねられたので、「光明真言・宝篋印陀羅尼」と答えたところ、そ
 れを弟子たちが知り、「どうしてそうおっしゃったのですか。念仏に勝るものはありま
 せん、とお答えなさるべきだったのでは」と申し上げたところ、「我が宗であるからこ
 そ、そういう風に言いたくなるのは分かるのだが、はっきりと、念仏を唱えれば死者の
 冥福にご利益があると説いた経文を見た事が無いのだ、どこで見たのだと重ねて聞かれ
 たなら、なんとお答えするのだ、経典にはっきりと書かれている、この真言・陀羅尼を
 挙げたまでだ。」と申されたそうだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、どんなときにも正しく、ですね。」
 「これまた、簡単にまとめるねぇ。」
 「そうですか?それじゃぁちょっと考えて...
  乗願房が正直なのか、東二条院がそうさせたのか」
 「ふむ、面白くなってきた。」
 
 乗願房:浄土宗の僧侶のこと。
 東二乗院:西園寺公子(1232-1304)のこと。後深草天皇の中宮。
 光明真言・宝篋印陀羅尼:どちらも真言密教のお経。
 
 一説によるとこの話は、東二条院が十代、乗願房が七十代の頃の話らしい。
 兼好が直接東二条院から聞いた話なのだろうか。
2010/09/04(Sat)

第二百二十一段 建治・弘安の比は
 「建治(ケンヂ)・弘安(コウアン)の比は、祭(マツリ)の日の放免(ハウベン)の
 附物(ツケモノ)に、異様(コトヤウ)なる紺の布四五反(シゴタン)にて馬を作り
 て、尾(ヲ)・髪には燈心(トウジミ)をして、蜘蛛(クモ)の網(イ)書(カ)きた
 る水干(スヰカン)に附(ツ)けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及(ミオヨ)
 び侍りしなども、興(キョウ)ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志
 (ダウシ)どもの、今日(ケフ)も語り侍るなり。
 
 この比は、附物(ツケモノ)、年を送りて、過差(クワサ)殊(コト)の外(ホカ)に
 なりて、万(ヨロヅ)の重き物を多く附けて、左右(サウ)の袖(ソデ)を人に持たせ
 て、自(ミヅカ)らは鉾(ホコ)をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。
 
 ※
 「建治・弘安の頃、祭りの日の放免の飾り物に、風変わりな紺色の布四五反で馬を作
 り、尾や髪は燈心を使い、蜘蛛の巣が描かれた水干を着て、歌を歌いながら練り歩いて
 いるのは、いつもの見なれた光景だけれど、なかなか面白い趣向だなぁ」と、老いた元
 道志達が、今日も語り合っていた。
 
 この頃では、飾り物が、年々、必要以上に華美になり、重そうな物をたくさんぶら下
 げ、左右の袖を人に持たせて、自分は鉾すら持たず、息を切らせて、苦しそうな様子
 で、なんとも見苦しい。
 
 ※
 「ご隠居はん、無理やり現代語にすると、変な文章です。」
 「まぁそれは仕方が無い。あまりこだわらず、読みやすくしてはどうかな。」
 「もう二百二十一段まで来ましたから、やめておきます。
  ところで、お祭りの話です。」
 「そうだね。」
 「祭り本来の目的を忘れるのは現代でも同じですね。」
 「あぁもうすぐ煩わしい季節だね。」
 「えぇ。」
 
 建治・弘安の頃:1275〜88年までの頃。後宇多天皇の時代。
 放免:検非違使庁の官職で下部とも言う。
    刑期を終えたか罪を許された者を使ったそうです。
 道志:検非違使庁と衛門府の志を兼務している者。ということですが、さて。
 水干:狩衣の一種で下級官吏などが着ている服。
 
 放免たちの衣装に描かれた蜘蛛の糸は、犯罪者を捕まえることになぞらえているので
 しょうか。
2010/08/28(Sat)

第二百二十段 何事も、辺土は賤しく
 「何事も、辺土(ヘンド)は賤しく、かたくななれども、天王寺(テンワウジ)の舞楽
 (ブガク)のみ都(ミヤコ)に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人(レイジン)の申し侍り
 しは、「当寺(タウジ)の楽(ガク)は、よく図(ヅ)を調べ合はせて、ものの音
 (ネ)のめでたく調(トトノホ)り侍る事、外(ホカ)よりもすぐれたり。故は、太子
 (タイシ)の御時(オントキ)の図、今に侍るを博士(ハカセ)とす。いはゆる六時
 (ロクジ)堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調(ワウジキデウ)の最中(モナカ)なり。
 寒(カン)・暑(シヨ)に随(シタガ)ひて上(アガ)り・下(サガ)りあるべき故
 に、二月涅槃会(ニグワツネハンヱ)より聖霊会(シヤウリヤウヱ)までの中間(チユ
 ウゲン)を指南(シナン)とす。秘蔵(ヒサウ)の事なり。この一調子(イツテウシ)
 をもちて、いづれの声をも調へ侍るなり」と申しき。
 
 凡(オヨ)そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎(ギヲンシヤウ
 ジヤ)の無常院(ムジヤウイン)の声なり。西園寺(サイヲンジ)の鐘、黄鐘調に鋳
 (イ)らるべしとて、数多度(アマタタビ)鋳かへられけれども、叶(カナ)はざりけ
 るを、遠国(ヲンゴク)より尋ね出されけり。浄金剛(ジヤウコンガウ)院の鐘の声、
 また黄鐘調なり。
 
 ※
 「何でも、田舎のものは下品で、野暮ったいけれど、四天王寺の舞楽だけは都にも負け
 てないな。」と言われている。四天王寺の楽師が言うには、「この寺の演奏は、ちゃん
 と調律をして、音色の調整ができているので、よそより優れているのです。これは、聖
 徳太子の時代の調律基準を、今日まで守ってきたおかげです。基準とは六時堂の前にあ
 る鐘のことです。鐘の音が、黄鐘調とぴったり同じなのです。寒さ・暑さによって音が
 変わってしまいますので、二月十五日から二月二十二日の間の音を基準としてます。奥
 義という訳ですね。のこ一音で、ほかの音も調えます。」とのことだった。
 
 そもそも、鐘の音というものは黄鐘調なのだ。これは、無常の音、祇園精舎の無常院の
 音なのだ。西園寺の鐘は、黄鐘調にしようとして、何度も造りかえられたけれど、上手
 くいかなかったので、遠くから取り寄せることになった。浄金剛院の鐘の音も、黄鐘調
 だったな。
 
 ※
 「ご隠居はん、鐘の音にはこんな意味があったんですね。」
 「結構音色が違うようだけれどね。」
2010/08/21(Sat)

第二百十九段 四条黄門命ぜられて云はく
 四条黄門(シデウノクワウモン)命ぜられて云はく、「竜秋(タツアキ)は、道にと
 りては、やんごとなき者なり。先日(センジツ)来りて云はく、『短慮(タンリヨ)
 の至り、極めて荒涼(クワウリヤウ)の事なれども、横笛(ヨコブエ)の五(ゴ)の
 穴は、聊(イササ)かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存(ゾン)ず。その
 故は、干(カン)の穴は平調(ヒヤウデウ)、五の穴は下無調(シモムデウ)なり。
 その間に、勝絶調(シヨウゼツデウ)を隔てたり。上(ジヤウ)の穴、双調(サウデ
 ウ)。次に、鳧鐘調(フシヨウデウ)を置きて、夕(サク)の穴、黄鐘調(ワウジキ
 デウ)なり。その次に鸞鏡調(ランケイデウ)を置きて、中(チユウ)の穴、盤渉調
 (バンシキデウ)、中と六とのあはひに、神仙調(シンセンデウ)あり。かやうに、
 間々(ママ)に皆一律(イチリツ)をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持た
 ずして、しかも、間(マ)を配る事等(ヒト)しき故に、その声不快(フクワイ)な
 り。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得
 (ウ)る人難(カタ)し』と申しき。料簡(レウケン)の至り、まことに興あり。先
 達(センダチ)、後生(コウセイ)を畏(オソ)ると云ふこと、この事なり」と侍り
 き。
 
 他日(タジツ)に、景茂(カゲモチ)が申し侍りしは、「笙(シヤウ)は調べおほせ
 て、持ちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛(フエ)は、吹きながら、息のうちにて、
 かつ調べもてゆく物なれば、穴毎(ゴト)に、口伝(クデン)の上に性骨(シヤウコ
 ツ)を加へて、心を入(イ)るゝこと、五の穴のみに限らず。偏(ヒトヘ)に、のく
 とばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれを
 も吹き合はす。呂律(リヨリツ)の、物に適(カナ)はざるは、人の咎(トガ)な
 り。器(ウツハモノ)の失(シツ)にあらず」と申しき。
 
 ※
 藤原隆資中納言の仰せに「竜秋は、専門家として、立派な人物です。先日やって来た
 者が『浅はかで、大雑把な考えではありますが、横笛のゴの穴については、多少の疑
 問を、以前より持っておりました。それは、カンの穴はヒョウ調、ゴの穴はシモム
 調。その間に、ショウゼッ調があります。ジョウの穴はソウ調、次がフショウ調、そ
 してサクの穴は、オウジョウ調。その次にランケイ調がきて、チュウの穴が、バン
 ショウ調、チュウとロクとの間にシンセン調がある。この様に、穴と穴の間に調があ
 るのに、ゴの穴のみ、ジョウの穴との間に調が無く、しかも、穴の間隔は同じなの
 で、その音は不快となります。ですから、この穴を吹く時は、必ず音をずらせます。
 ずらし切れないと、おかしくなります。吹く者にとって難しいのです。』と言ったそ
 うです。思案の道筋が、とても新鮮なのです。先達者が、後進を恐れるというのは、
 こういう事なのです。」とお答えした。
 
 他日、景茂が言うには「笙は調律すれば、持って、ただ吹くだけ。笛は、吹きなが
 ら、息の加減で、調べを奏でるものなので、穴ごとに、教えに経験を加え、気を付け
 るのは、ゴの穴だけではない。いつも、ずらせばよいという訳でもない。下手に吹け
 ば、どの穴でも不快な音になる。名手はどんな時でも吹きこなす。演奏が、上手くゆ
 かないのは、人の責任です。楽器が悪いのではありません。」とのことだった。
 
 ※
 「ご隠居はん、何とも分かりにくい段です。誰が誰に言った話なのか迷いました。」
 「仕方ないねぇ。短慮の至り、極めて荒涼でいいのだよ。」
 「そうですか。では。人の言う事は何時も謙虚に受け止めよ。決して馬鹿にしてはな
 らない。」
 「ふん、竜秋はそういう人だと。」
 「景茂が言っているのは、弘法筆を選ばず。」
 「二人ともいいこと言ってると。」
 「景茂の言うのは極端な気もするのですが。」
 
 竜秋:豊原竜秋のこと。笙の名人。
 景茂:大神景茂のこと。笛の名人。
2010/08/14(Sat)

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