週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

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第九十九段 堀川相国は、美男のたのしき人にて
 堀川相国(ホリカハノシヤウコク)は、美男(ビナン)のたのしき人にて、そのこと
 となく過差(クワサ)を好み給ひけり。御子(オンコ)基俊卿(モトトシ)を大理
 (ダイリ)になして、庁務(チヤウム)行はれけるに、庁屋(チヨウヤ)の唐櫃(カ
 ラヒツ)見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由(ヨシ)仰せられけるに、この唐
 櫃は、上古(シヤウコ)より伝はりて、その始めを知らず、数百年(スヒヤクネン)
 を経たり。累代(ルヰタイ)の公物(クモツ)、古弊(コヘイ)をもちて規模とす。
 たやすく改められ難き由、故実(コシツ)の諸官等申しければ、その事止みにけり。
 
 ※
 堀川相国は、美男で裕福な人であり、どんな事にでも度の過ぎた豪奢なことを好まれ
 た。その子である基俊卿を大理に就けて、庁務を行っているときのこと、そこにある
 唐櫃が見苦しいというので、立派なものに作り変えるよう仰せられたのだが、この唐
 櫃は、大昔より伝わったもので、いつの時代の物かさえわからない、数百年は経って
 いるだろう。何代にも及ぶ公の物は、その古く使い込まれた状態が価値とされてい
 た。よって簡単に作り変えられないことを、ならわしに詳しい職員たちが申したの
 で、その事は取止めとなった。
 
 ※
 「ご隠居はん、お金持ちのおっさんのしたことを非難しているのか、事なかれの官僚
 を批判しているのか。」
 「その両方ということも。」
 「両方ですか。批判家兼好らしいな。それにしても、いつも読んでいて思いますが、
 今も似た所が...。」
 
 堀川相国:久我基具のこと。岩倉具実の子。養女の堀河基子が後二条天皇の母。
      伏見天皇の時代に太政大臣となる。最初の年、天皇は両統迭立原則を破
      り自身の子を皇太子にし、翌年には天皇暗殺未遂事件が起きています。
 
 相国:太政大臣の中国風の言い方。相国といえば曹操孟徳が有名ですね。
 
 大理:検非違使別当の中国風の言い方。検非違使は警察、検察、裁判の役割を併せ
    持った組織。よって絶大な権力機関なのですが、兼好さんの時代には有名無
    実化しています。別当は長官のこと。次官は佐、その下が判官。判官といえ
    ば源義経が有名。
 
 唐櫃:6本足の収納家具。
 こんな風に傷んでいたのかな
 http://www.city.nishio.aichi.jp/kaforuda/30bunka/bunz/karabitu.html
 新品はこんな感じ
 http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/siryou/005-replica/008rep-karabitu/008rep-karabitu.htm
 楽天で売られているものがあった。小物入れに買ってみようかな。
 しかし、小さいのに高いな。
 http://www.rakuten.co.jp/iwata-ss/846290/846291/
2007/11/18(Sun)

第九十八段 尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて
 尊(タフト)きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談(イチゴンハウダ
 ン)とかや名づけたる草子(サウシ)を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。
 
 一しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり。
 
 一後世(ゴセ)を思はん者は、糂汰瓶(ジンダガメ)一つも持つまじきことなり。持
 経(ヂキヤウ)・本尊(ホンゾン)に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。
 
 一遁世者(トンゼイジヤ)は、なきにことかけぬやうを計(ハカラ)ひて過ぐる、最
 上のやうにてあるなり。
 
 一上臈(ジヤウラフ)は下臈(ゲラフ)に成り、智者(チシヤ)は愚者(グシヤ)に
 成り、徳人(トクニン)は貧(ヒン)に成り、能ある人は無能に成るべきなり。
 
 一仏道を願ふといふは、別の事なし。暇(イトマ)ある身になりて、世の事を心にか
 けぬを、第一の道とす。
 
 この外もありし事ども、覚えず。
 
 ※
 尊い聖が言っていたことを書留めて、「一言芳談」とか名付けた本を見たとき、なる
 ほどと思ったことがいくつかある。
 
 一、した方がいいかな、しない方がいいかなと迷ったことは、しない方がよい。
 
 一、来世の平穏を願うなら、糠味噌の瓶ひとつ持たないほうがよい。お経や本尊に至
 るまで、よいものを持つというのは、いいことではないな。
 
 一、世捨て人は、物が無いという事を気に掛けないように過ごし、満ち足りているよ
 うに過ごすこと。
 
 一、高僧は出家したての僧に成り、知恵者は愚か者に成り、金持ちは貧乏人に成り、
 能あるものは無能に成ってみるべきだ。
 
 一、仏道の修行に、特別必要なものはない。暇のある身になって、世間のことを気に
 掛けない、それが始まりだ。
 
 この他にも色々あったけれど、覚えてないなぁ。
 
 ※
 「ご隠居はん、これはお坊さんが言ったことですから、我々には関係ないですね。」
 「まぁ確かにそうなんだけれど、少し言葉を変えてみるとどうだろう。例えば、後世
 は死後、遁世者は定年退職者、下臈は初心者だしね。」
 「あぁなるほど。少し強引ではありますが、いいかも。」
2007/11/11(Sun)

第九十七段 その物に付きて、その物をつひやし損ふ物
 その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に蝨(シラミ)あ
 り。家に鼠(ネズミ)あり。国に賊(ゾク)あり。小人(セウジン)に財(ザイ)あ
 り。君子(クンシ)に仁義(ジンギ)あり。僧に法(ホフ)あり。
 
 ※
 その物に取り付いて、その物を疲弊させ滅ぼす物なんて、数限りなくある。人にはシ
 ラミ。家にネズミ。国に賊。小人に財。人格者に仁義。僧に仏法だな。
 
 ※
 「ご隠居はん、国に賊は今風に言えば国に天下り官僚ですかね。」
 「ははは、今の日本で国を滅ぼすことができる組織といえばそこしかないか。そうな
 らないようにしてほしいものだね。」
 「君子に仁義あり。僧に法あり。これまた皮肉ですね。」
 「本当の君子や僧は、そういうものを越えてゆくもの。こだわって形式的になるなっ
 て事だよ。」
 「なるほど。それはそうと、一度でいいですから身を滅ぼすほど財を持ってみたいも
 のですね。」
2007/11/04(Sun)

第九十六段 めなもみといふ草あり
 めなもみといふ草あり。くちばみに螫(サ)されたる人、かの草を揉(モ)みて付け
 ぬれば、即ち癒(イ)ゆとなん。見知りて置くべし。
 
 ※
 めなもみという草がある。マムシに噛まれたら、その草をよく揉んで傷口に当てれ
 ば、すぐに治るよ。覚えておくとよい。
 
 ※
 「ご隠居はん、さすが出家の坊主ですね。薬がなくって虫刺されの薬を使ってみたと
 か。」
 「ありそうなことだね。ただ気になるのは、なぜ書きとめたのか。誰かが読むと考え
 ていたのだろうか。」
 
 
 メナモミという名の草は現代にもあります。
 文献によってはここでいう『メナモミ』は『ヤブタバコ』のことだと解説していま
 す。
 
 メナモミについては下のリンク先を参考に
 http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/menamomi.html
 オナモミのほうは子供の頃よく遊びましたよね。
 
 メナモミの効能についてはこちら
 http://www.naoru.com/menamomi.htm
 虫刺されに効くからマムシにも試してみたのでしょうか。
 沢山効能が書かれていますが、本当に効くのか?
 
 ヤブタバコについてはこちら
 http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch5-wild%20flowers/yabutabako.htm
 こちらも薬草です。
 
 実物を見知っていないので、どちらが正しいのか...。
2007/10/28(Sun)

第九十五段 箱のくりかたに緒を付くる事
 「箱(ハコ)のくりかたに緒(ヲ)を付くる事、いづかたに付け侍るべきぞ」と、あ
 る有職(イウシヨク)の人に尋ね申し侍りしかば、「軸(ヂク)に付け、表紙に付く
 る事、両説(リヤウセツ)なれば、いづれも難(ナン)なし。文(フミ)の箱は、多
 くは右に付く。手箱(テバコ)には、軸に付くるも常の事なり」と仰せられき。
 
 ※
 「箱の蓋に紐を付けたいのですが、どちらに付けるべきですか。」と、ある物知りに
 聞いたところ、「箱の左に付けたり、右に付けたり、両方の説がありますから、どち
 らに付けてもかまいません。文を入れる箱は、ほとんどの場合右に付けています。手
 箱の場合は、左に付けることが多いようです。」と仰った。
 
 ※
 「ご隠居はん、専門家への物の聞き方ですね。」
 「そのようだね。答え方も実にいいよね。どちらでもいいけれど、こういうときはこ
 うする場合が多いとお奨めも教えてる。聞いたほうは安心するね。」
 「最近では専門家に聞いて教えてもらっても、聞き入れもせず、極端な例外中の例外
 を例えに出して、『でもこんなこともあるじゃないかと』反論する人も居ますから、
 まったく疲れますよ。」
 「お疲れだね。」
2007/10/28(Sun)

第九十四段 常磐井相国、出仕し給いけるに
 常磐井相国(トキハヰノシヤウコク)、出仕(シユツシ)し給ひけるに、勅書(チヨ
 クシヨ)を持ちたる北面(ホクメン)あひ奉りて、馬より下りたりけるを、相国、後
 に、「北面某(ナニガシ)は、勅書を持ちながら下馬(ゲバ)し侍りし者なり。かほ
 どの者、いかでか、君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけ
 り。
 
 勅書を、馬の上ながら、捧(ササ)げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。
 
 ※
 常磐井相国が、御所へ向う途中、勅書を持った北面と出合ったところ、その北面は馬
 から降りてしまったので、相国は、後に、「北面の何とかは、勅書を持っていながら
 馬から降り控えたのだ。このような者は、どう考えても、君に仕えるべきではない」
 といい、北面を首にした。
 
 勅書を、馬の上で、捧げて見せるべきで、下ってはいけないんだってさ。
 
 ※
 「ご隠居はん、作法の話と思いますが、なんだかすっきりしません。」
 「権勢並ぶものなき太政大臣と出合ったので、とっさに馬から下りて頭を下げてしま
 った警護の武士を、「作法も知らん奴」と満更でもないという感じで他人にわざわざ
 正論を語り、上皇の警護役までも自由にできるんだと見せ付けてくれたわけ。」
 「やな奴!昔話だからいいようなもので、同時代なら批判している兼好の命
 も...。」
 「昔話なのに最後の一行で逃げてるよね。」
 
 常磐井相国:藤原(西園寺)実氏。公経の子で従一位太政大臣。
 太政大臣については第八十三段を参照してください。
 http://bbs.mail-box.ne.jp/ture/index.php?page=9#84
 
 北面:北面の武士。上皇の御所を警護する武士。
2007/10/16(Tue)

第九十三段 牛を売る者あり
 「牛を売る者あり。買ふ人、明日(アス)、その値(アタヒ)をやりて、牛を取らん
 といふ。夜(ヨ)の間(マ)に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に
 損あり」と語る人あり。
 
 これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主(ヌシ)、まことに損ありといへど
 も、また、大きなる利あり。その故は、生(シヤウ)あるもの、死の近き事を知らざ
 る事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は
 存ぜり。一日の命、万金(マンキン)よりも重し。牛の値、鵝毛(ガマウ)よりも軽
 (カロ)し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人
 (ミナヒト)嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。
 
 また云はく、「されば、人、死を憎まば、生(シヤウ)を愛すべし。存命(ゾンメ
 イ)の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがは
 しく外(ホカ)の楽しびを求め、この財(タカラ)を忘れて、危(アヤフ)く他の財
 を貪るには、志(ココロザシ)満つ事なし。行ける間生を楽しまずして、死に臨(ノ
 ゾ)みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故
 なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死(シヤウ
 ジ)の相(ソウ)にあづからずといはば、実(マコト)の理を得たりといふべし」と
 言ふに、人、いよいよ嘲る。
 
 ※
 「牛を売ろうとしている人が居てね、それを買いたいという人から、明日、支払うか
 ら、その時牛をもらうよといわれたんだけど、夜の間に牛は死んでしまったんだ。買
 おうとした人は得をして、売ろうとした人は損をしたな。」と言った人が居た。
 
 これを聞いて、そばに居た人が言うには、「牛の持ち主は、確かに損はしたけれど、
 別の意味で、もっと大きな得をしている。なぜかと言うと、命あるものは、死が近く
 にあることを知らない、そのことを牛が、証明してくれた。人もまた、同じだ。思い
 がけず牛は死に、思いがけずその主は生きている。一日の命は、どんな大金よりも貴
 重だ。牛の価値なんて、鵞鳥の羽よりも軽い。大金を得て少しの銭を失った人を、損
 したとは言わないだろ。」と言ったので、それを聞いた人々は嘲って、「その理屈な
 ら、牛の主だけじゃないだろう。」と言った。
 
 続けて言った、「そうさ、人は、死を嫌うのだから、命を大切にすべきじゃないか。
 生きている喜びを、日々楽しめばよいのだ。おろかな人は、この楽しみを忘れ、無理
 をして他の楽しみを求め、大切なことを忘れ、他のことを貪るように求め続けるか
 ら、心が満たされることがない。生きている間人生を楽しまなくて、死に際に死を恐
 れるのは、そのことに気付かなかったからだ。人が生きていることを楽しまないの
 は、死を恐れていないからだ。いや死を恐れていいないのではない、死が近くにある
 ということを忘れているからだ。もし、生死なんて段階にかかわりないというなら、
 それは悟ったということだ。」と言ったものだから、人々は、いよいよ嘲った。
 
 ※
 「ご隠居はん、哲学の違いを論じても意味がないような。」
 「死生観だからね。これ兼好自身のことかな。」
 「いつも見てきたようなこと書いてますからねぇ。それに出家僧の言いそうなことで
 すし。」
 「でもね、まったく否定はできないね。発想というか尺度を変えればみんな幸せって
 ことだから。」
 「小さな物事にとらわれず。生き続けなさいってことですかね。」
2007/10/07(Sun)

第九十二段 或人、弓射る事を習ふに
 或人(アルヒト)、弓射(イ)る事を習ふに、諸矢(モロヤ)をたばさみて的に向
 (ムカ)ふ。師の云はく、「初心(シヨシン)の人、二つの矢を持つ事なかれ。後
 (ノチ)の矢を頼(タノ)みて、始めの矢に等閑(ナホザリ)の心あり。毎度(マイ
 ド)、たゞ、得失(トクシツ)なく、この一矢(ヒトヤ)に定(サダ)むべしと思
 へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠
 (ケダイ)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒(イマシ)め、
 万事(バンジ)にわたるべし。
 
 道(ミチ)を学(ガク)する人、夕(ユウベ)には朝(アシタ)あらん事を思ひ、朝
 には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修(シユ)せんことを期(ゴ)す。況
 (イハ)んや、一刹那(セツナ)の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、
 たゞ今の一念において、直(タダ)ちにする事の甚(ハナハ)だ難(カタ)き。
 
 ※
 ある人が、弓道を習うとき、諸矢を持って的に向かった。すると師匠から、「初心者
 は、二本の矢を持ってはいけません。もう一本あるからと、最初の矢に対する気持ち
 がいい加減になってしまう。弓を射る度に、ただ無心に、この一本で決めるのだと言
 う気持ちを持つことが大事なのです。」と言われた。二本の矢しかないのだから、師
 匠の前で一本を疎かに扱ったりはしないだろう。しかし怠け心は、自ら感じなくて
 も、師匠にはわかっているものだよ。この戒めは、全ての物事に共通する。
 
 いろんな分野で学ぼうとする人は、夕には明日の朝の修行を思い、朝になると夕の修
 行を考え、その積み重ねの上に修める事を願う。だからこそ、一瞬の、怠け心に気付
 かない。なぜ、ただ今思ったことを、直ちに実行する事がこれほど難しいのだろう。
 
 ※
 「ご隠居はん、常に危機感を持てということなんですが、言うは安し、行うは難しで
 すよ。」
 「だろうね。だから師匠の存在が大きいんだね。」
 「ご隠居はん、この週間徒然草も怠けることなく続けてゆきたいと思います。」
 「うん、よく言った。」
 「ということで、ご隠居はんもお付き合いくださいませ。師匠ですから。」
 「そういう事か、仕方ないな。」
 
 諸矢:作法として最初の矢と次の矢を持って射るのがあるそうです。
    素人考えではとっても射難そうですね。
2007/09/30(Sun)

第九十一段 赤舌日といふ事
 赤舌日(シヤクゼチニチ)といふ事、陰陽道(オンヤウダウ)には沙汰(サタ)なき
 事なり。昔の人、これを忌(イ)まず。この比、何者(ナニモノ)の言ひ出でて忌み
 始めけるにか、この日ある事、末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したり
 しことかなはず、得たりし物は失(ウシナ)ひつ、企(クハタ)てたりし事成らずと
 いふ、愚かなり。吉日(キチニチ)を撰びてなしたるわざの末とほらぬを数(カゾ)
 へて見んも、また等しかるべし。
 
 その故は、無常変易(ムジヤウヘンエキ)の境(サカヒ)、ありと見るものも存ぜ
 ず。始めある事も終りなし。志(ココロザシ)は遂げず。望みは絶えず。人の心不定
 (フジヤウ)なり。物皆幻化(モノミナゲンゲ)なり。何事か暫(シバラ)くも住
 (ヂユウ)する。この理(コトワリ)を知らざるなり。「吉日(キチニチ)に悪をな
 すに、必ず凶なり。悪日(アクニチ)に善を行ふに、必ず吉なり」と言へり。吉凶
 (キツキヨウ)は、人によりて、日によらず。
 
 ※
 赤舌日について、陰陽道ではこれといって触れられていない。昔の人は、この日を嫌
 わなかったんだ。最近になって、何者かが言い出して嫌い始め、この日に行う事は、
 上手くゆかないと言ったり、その日に言ったこと、した事は望み通りにならず、得た
 ものは失い、計画したことも上手くゆかないと言うのだから、まったく馬鹿馬鹿しい
 事だよ。よい日柄を選んで行ったのに上手くゆかなかったことを数えてみれば、同じ
 なんだけどね。
 
 なぜかと言うと、物事は全て変不変の境にある、あると思ったものも次の瞬間には存
 在しない。始まりあって終わりはない。志に成し遂げるということはない。望みは絶
 えずあり。人の心も定まらない。物は全て変化する。今の姿は一時的でしかない。こ
 の理を知らないわけだ。「吉日に悪いことをすれば、必ずよくない結果となる。悪日
 によい事をすれば、必ずよい日となる。」と言える。だから吉凶は、人によるのであ
 って、日によるのではないよ。
 
 ※
 「ご隠居はん、とても合理的ですね。」
 「神社の息子がこんなこと言っていいのかと思うぐらいにね。」
 「おみくじやお守りなんて気にするな!吉凶は人の営みによる。」
 「実家が聞いたら怒るがな。営業妨害や。」
 「ただご隠居はん、現在のほうが社会が複雑になって、自分の力ではどうにもならな
 いものも増えましたし、事故の様に巻き込まれるようなものはやはり運としかいえな
 い気もしますね。」
 「だからと言ってやはり、日で決まるわけではないよね。」
 
 赤舌日:現在の赤口。正午以外は大凶だそうです。六曜自体は江戸時代中期から使わ
     れているようです。大安や仏滅も歴史としては浅いものです。現在では仏滅
     の方が忌み嫌われていますから、そこから考えても信じるのはどうかと。
2007/09/30(Sun)

第九十段 大納言法印の召使ひし乙鶴丸
 大納言法印(ホフイン)の召使(メシツカ)ひし乙鶴丸(オトヅルマル)、やすら殿
 といふ者を知りて、常に行(ユ)き通(カヨ)ひしに、或時出でて帰り来たるを、法
 印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷(マカ)りて候ふ」
 と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖掻(ソデカ)き合せ
 て、「いかゞ候ふらん。頭(カシラ)をば見候はず」と答へ申しき。
 
 などか、頭(カシラ)ばかりの見えざりけん。
 
 ※
 大納言法印の召使をしている乙鶴丸は、やすら殿とかいう者と知り合いになって、よ
 く通っていた、ある時帰ってきたところを、法印が「何処へ行ってきたんだ」と問う
 たところ、「やすら殿の許でございます」と言う。「そのやすら殿は、男か法師か」
 とさらに問うと、袖をもじもじさせながら、「わかりません。頭は見ませんでしたの
 で」と答えたそうな。
 
 なぜなんだろうね、頭だけ見てないって。
 
 ※
 「ご隠居はん、少年愛、ショタコン、やおいですよ。700年前のほうが開けっ広げで
 すね。」
 「以前の段にも、稚児相手に盛り上がる坊主ってのがあったけど、ある意味文化とし
 て存在しているんだね。ただ兼好法師は冷ややかに見ている気もするけれど。」
 「それにしても、疑問が・・・。男か法師かって聞いてますが、男だったら、法師だ
 ったらどうなんでしょう?」
 「どうなんでしょうって、わしにもわからん。」
 「それに、法師は男ではないんですか。」
2007/09/16(Sun)

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