週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

TopPageへ   ご意見ご感想はありおーにゆ〜たるまで。   RSS2.0

最新  24.. 20.. 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 ページ

5 ページ 10 段分です。


第五十段 応長の比、伊勢国より
 応長(オウチヤウ)の比、伊勢国(イセノクニ)より、女の鬼に成りたるをゐて上
 (ノボ)りたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京(キヤウ)・白川
 (シラカハ)の人、鬼見(オニミ)にとて出(イ)で惑(マド)ふ。「昨日は西園寺
 (サイヲンジ)に参(マヰ)りたりし」、「今日は院(ヰン)へ参るべし」、「たゞ
 今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言( ソラゴ
 ト)と云う人もなし。上下(ジヤウゲ)、ただ鬼の事のみ言ひ止(ヤ)まず。 
 
 その比、東山(ヒガシヤマ)より安居院辺(アグヰヘン)へ罷(マカ)り侍りしに、
 四条(シデウ)よりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町(ムロマチ) 
 に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川(イマデガハ)の辺(ヘン)より見やれば、院
 の御桟敷(オンサジキ)のあたり、更に通り得べうもあらず、立ちこみたり。はや
 く、跡なき事にはあらざンめりとて、人を遣(ヤ)りて見するに、おほかた、逢
 (ア)へる者なし。暮るゝまでかく立ち騒ぎて、果(ハテ)は闘諍(トウジヤウ) 
 起りて、あさましきことどもありけり。 
 
 その比、おしなべて、二三日(フツカミカ)、人のわづらふ事侍りしをぞ、かの、鬼
 の虚言(ソラゴト)は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。
 
 ※
 応長の頃、伊勢の国より、女が鬼になった者を率いて上京してきたと言う事があり、
 その頃から二十日ばかり、毎日、京・白川の人々は、鬼見物へ出歩くことに夢中にな
 った。「昨日は西園寺に現れた。」「今日は院へ現れるそうだ。」「今はどこどこに
 居る。」などと言い合っている。本当に見たという人も居ず、反対に嘘だという人も
 居ない。貴族も平民もみんな、鬼の話題で持ちきりだ。
 
 その頃、東山から安居院の辺りへ出かけたときの事、四条より北側の人が、皆、北に
 向かって走っていた。「一条室町に鬼が居る。」と言い立て合っている。今出川の辺
 りから見れば、院の御桟敷のあたりには、さらに大勢の人が居て、大変な混雑になっ
 ていた。最初から、根も葉もないことだろうと思ってはいたが、人を遣って調べさせ
 ると、まったく、会えた者は居なかった。日が暮れる頃までそんな風に騒いで、果て
 は喧嘩まで起こるのだから、嘆かわしいことだ。
 
 その頃、一様に、二、三日、人々が病気になることがあったが、あの、鬼の話は、こ
 の前兆だったという人も居る。
 
 ※
 「ご隠居はん。最後に虚言と言ってますから、ここでの訳文では兼好さんは最初から
 信じていなかったようにしてみました。」
 「昔っから人というのは、怖いもの見たさという好奇心と、原因のわからないものの
 因果を、他の出来事に求めてしまう習性がある。そこから迷信なんかも生まれるのだ
 けれど、そこに付け入る人間も居るという批判なんだろうね。」
 
 応長:花園帝の時代の元号。一年のみ。
 院:この頃は後宇多院のこと。
 院の御桟敷:一条大路にある賀茂祭見物のための桟敷。
2006/09/10(Sun)

第四十九段 老来りて、始めて道を行ぜんと
 老来(オイキタ)りて、始めて道を行(ギヤウ)ぜんと待つことなかれ。古き墳( 
 ツカ)、多くはこれ少年(セウネン)の人なり。はからざるに病を受けて、忽(タチ
 マ)ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方(カタ)の誤(アヤ
 マ)れる事は知らるなれ。誤りといふは、他(タ)の事にあらず、速(スミヤ) か
 にすべき事を緩(ユル)くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔(クヤ) し
 きなり。その時悔(ク)ゆとも、かひあらんや。 
 
 人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきな
 り。さらば、などか、この世の濁(ニゴ)りも薄く、仏道を勤(ツト)むる心もまめ
 やかならざらん。 
 
 「昔ありける聖(ヒジリ)は、人来りて自他(ジタ)の要事(エウジ)を言ふ時、答
 へて云はく、「今、火急(クワキフ)の事ありて、既(スデ)に朝夕(テウセキ) 
 に逼(セマ)れり」とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生(ワウジヤウ)を遂 
 (ト)げけ(り」と、禅林(ゼンリン)の十因(ジフイン)に侍り。心戒(シンカ
 イ) といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かについゐけ
 ることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。 
 
 ※
 年老いてから、仏道修行を始めようなんて待つことはないんだ。古いお墓、多くは若
 い人々のものだ。突然病気になり、いつ死んでもおかしくない状況になって、初め
 て、過ぎた日々の過ちに気づくんだな。過ちというのは、他でもない、今すぐすべき
 事を後回しにし、後から出来る様なことを慌ててしたりして、時間を無駄にした事を
 悔やむ。死に際に悔やんでも、仕方がないのだけれどね。
 
 人は、ただ、危機が、身に迫っているのだと心に掛けて、束の間も忘れてはならな
 い。そうすれば、この世の欲も薄く、仏道を勤める心も浮つくことがなくなるだろ
 う。
 
 「昔居た聖人は、人が互いの大事を言うとき、こう答えた「今、火急の事があり、も
 うすぐそこまで迫っている。」そして、耳を塞いで念仏を唱え、ついに極楽へ行け
 た。」と、禅林の十因に記されている。心戒という聖者は、余りに、この世が儚いも
 のであると思い、ゆっくり腰を落ち着けることもなく、いつもしゃがんで過ごしてい
 たそうだ。
 
 ※
 「ご隠居はん。前半はいいお話だと思いますが、後半が...」
 「極端だね。でもね、聖人というのは一般人から見ると変人だからね。」
 「ははは、そうですね。後半はともかく、前半もねぇわかってはいても無理。」
 「うん、この話はね、自分のことしか言っていないけど、実は他人のために生きるこ
 とが死に際に後悔せずに済むと言っているような気がするけどね。どうだろ。」
 
 禅林の十因:禅林寺の永観(ようかん)が書いた往生十因のこと。
2006/09/03(Sun)

第四十八段 光親卿、院の最勝講奉行して
 光親卿(ミチツカノキヤウ)、院の最勝講奉行(サイシヨウカウブギヨウ)してさぶ
 らひけるを、御前(ゴゼン)へ召されて、供御(クゴ)を出だされて食はせられけ
 り。さて、食ひ散らしたる衝重(ツイガサネ)を御簾(ミス)の中(ウチ)へさし入
 れて、罷(マカ)り出でにけり。女房、「あな汚(キタ)な。誰にとれとてか」など
 申し合(ア)はれければ、「有職(イウシヨク)の振舞、やんごとなき事なり」と、
 返々(カヘスガエス)感ぜさせ給ひけるとぞ。 
 
 ※
 藤原光親卿が、後鳥羽上皇の最勝講を取り仕切ったとき、御前へ呼ばれ、食事をご馳
 走になった。そして、食い散らかした食器を御簾の中へ置いて、退出していった。そ
 れを見た侍女達が「汚いわね。誰に片付けろというのかしら。」と文句を言い合って
 いると、「礼式にかなった振舞、立派なものだ。」と、返す返す感心されていたとい
 うことだ。
 
 ※
 「ご隠居はん。こんな作法もあるのですね。」
 「今なら、出された物をきれいに食べるのが作法というか礼儀なんだけど、貴族社会
 ではこういう作法があったんだね。あった、というのは侍女達は知らないぐらいだか
 ら、廃れていたんだろうね。」
 「そんなもう使われていないような作法をなぜ使ったのでしょう。」
 「ん〜忙しくて食事どころではなかったから、昔の作法をうまく使ったのだろうか
 ね。」
 
 最勝講:帝が天下泰平の祈りを聞く場所。第二十二段でも出てきましたね。
 供御:帝の食べ物。
 衝重:白木でできた食膳。
2006/08/27(Sun)

第四十七段 或人、清水へ参りけるに
 或人(アルヒト)、清水(キヨミヅ)へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりける
 が、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前(アマゴゼ)、何
 事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応(イラ)へもせず、なほ言ひ止(ヤ)ま
 ざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。鼻(ハナ)ひたる時、かくまじな
 はねば死ぬるなりと申せば、養君(ヤシナヒギミ)の、比叡山 (ヒエノヤマ)に児
 (チゴ)にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言
 ひけり。 
 
 有り難き志(ココロザシ)なりけんかし。 
 
 ※
 ある人が、清水寺へお参りするとき、年のいった尼さんと一緒に行く事になったんだ
 けれど、途中、「くさめくさめ」と言いながら歩くので、「尼さん、なにをそんなに
 言い続けているんだい」と聞いてみたが、答えもせず、言い止めなかったので、何度
 も聞いてみたんだ、すると腹を立てながら「うるさいねぇ。くしゃみをした時、こう
 いう風におまじないしないと死ぬと言うじゃないか、お育てした若君が、比叡山で暮
 らしているんだよ、今もくしゃみをしているのではないかと心配で、こう言い続けて
 いるんだよ」と言った。
 
 なんともありがたい話だねぇ。
 
 ※
 「ご隠居はん。最後の一行は、あきれて嫌味を言っているような。」
 「その通りだね。兼好さんは迷信にはかなり厳しいね。」
 「くさめ、くさめって...こんな迷信聞いたことないですよ。効果がなくって廃れた
 んでしょうか。」
 「最近、兼好さん並みに嫌味になってきたね。」
2006/08/20(Sun)

第四十六段 柳原の辺に
 柳原(ヤナギハラ)の辺(ヘン)に、強盗(ゴウダウノ)法印と号(カウ)する僧あ
 りけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。
 
 ※
 柳原の辺りに、強盗法印と名乗る僧が居る。度々強盗に遭ったので、この名を付けた
 んだと。
 
 ※
 「ご隠居はん、呆れてますねぇ。」
 「呆れもするよね。完全にどっか飛んでしまっている。前段と同じで貴族のボンボン
 だから能天気なのか。」
 「強盗に襲われる坊さん、きっと豪華な衣装を着て出歩いていたんでしょうね。」
 
 法印:朝廷から贈られる僧の最高位。法眼、法橋などもある。これらの下が四十二段
    で出た僧正、僧都になります。下の段で良覚僧正は従二位侍従藤原公世の兄な
    のだから、強盗法印はもっと上位の人の兄弟だったのかも。法印は官位で言う
    と従二位に相当するそうです。すごい。
2006/08/13(Sun)

第四十五段 公世の二位のせうとに
 公世(キンヨ)の二位のせうとに、良覚僧正(リヤウガクソウジヤウ)と聞えしは、
 極めて腹あしき人なりけり。 
 
 坊(ボウ)の傍(カタハラ)に、大きなる榎(エ)の木(キ)のありければ、人、
 「榎木(エノキノ)僧正」とぞ言ひける。この名然(シカ)るべからずとて、かの木
 を伐(キ)られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよ
 いよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、
 「堀池(ホリイケノ)僧正」とぞ言ひける。 
 
 ※
 従二位侍従藤原公世の兄に、良覚僧正と言う人が居るんだけど、とっても性格の悪い
 人なのだそうだ。
 
 家の横に、大きな榎の木があったので、人々は「榎木の僧正」と呼んでいたんだ。す
 ると「こんな名はけしからん」と、その木を切らせてしまった。そこには切り株が残
 ったので、今度は「切り株の僧正」と呼ばれるようになった。いよいよ腹が立って、
 切り株を掘り起こして捨ててしまったら、その跡に大きな堀ができたので、「堀池の
 僧正」と呼ばれるようになった。
 
 ※
 「ご隠居はん、そんなあだ名を付けられるってことは、周りからはいいようには思わ
 れていないのでしょうね。」
 「貴族の出で坊主になった。当然修行なんてなしに高位に付いたわけだから、なんに
 もわからんただのボンボンで、僧としての振舞や見識がないのだろうね。」
 「現代でもからかわれる対象ですね。『腹あしき人』という部分は、ほとんどの場合
 『怒りっぽい』と訳されていますけれど、ここでは『性格の悪い人』としてみまし
 た。こっちの方がしっくりくる様な。」
 「それは、なかなかの腹あしき人ぶりだね。」
2006/08/06(Sun)

第四十四段 あやしの竹の編戸の内より
 あやしの竹の編戸(アミド)の内より、いと若き男(ヲトコ)の、月影に色あひさだ
 かならねど、つやゝかなる狩衣(カリギヌ)に濃き指貫(サシヌキ)、いとゆゑづきた
 るさまにて、さゝやかなる童(ワラハ)ひとりを具(グ)して、遥(ハルカ)かなる田
 の中の細道を、稲葉(イナバ)の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きす
 さびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見
 送りつゝ行けば、笛を吹き止(ヤ)みて、山のきはに惣門(ソウモン)のある内に入
 (イ)りぬ。榻(シヂ)に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止(トマ)る心地して、
 下人(シモウド)に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事(ゴブツジ)
 など候ふにや」と言ふ。 
 
 御堂(ミダウ)の方(カタ)に法師ども参りたり。夜寒(ヨサム)の風に誘はれくるそ
 らだきものの匂ひも、身に沁(シ)む心地す。寝殿より御堂の廊(ラウ)に通ふ女房の
 追風用意(オヒカゼヨウイ)など、人目なき山里ともいはず、心遣(ヅカ)ひした
 り。 
 
 心のまゝに茂れる秋の野(ノ)らは、置き余る露に埋もれて、虫の音(ネ)かごとがま
 しく、遣水(ヤリミヅ)の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来(ユキキ)も速き心
 地して、月の晴(ハ)れ曇(クモ)る事定め難し。 
 
 ※
 粗末な竹の網戸の内から、とても若い男が、月影で色合いはよくわからないけれど、
 つややかな上着に濃い色の袴という、由緒のある出で立ちで、小さな子供をひとり伴
 い、遠くの田の中の細道を、稲葉の露に濡れながら分け行き、驚くほど上手に笛を吹
 き始めたんだけど、いい音色だと聞くような人も居ないだろうに、どこへ行くのか知
 りたくなって、後をつけていってみると、笛を吹くのをやめ、山の際にある門の中へ
 入っていった。
 止めてある車を見ても、都のものより目をみはる感じがしたので、召使に聞いてみる
 と、「何とかと言う宮がいらっしゃる頃ですから、仏事などではございませんか」と
 言う。
 
 お堂のほうには法師たちが集まっていた。夜の冷たい風に運ばれてくるお香の匂い
 も、身に染む心地がする。寝殿からお堂への廊下を行交う侍女たちの残り香など、人
 目のないような山里なのに、そのような心遣いを忘れていないのだな。
 
 心のままに茂っている秋の野は、露に埋もれて、虫の音は怨み言を言っているよう
 で、せせらぎの音はのどかだな。都の空よりは雲の流れが速い気がする、月の晴れ曇
 は決めにくいな。
 
 ※
 「ご隠居はん、前段に続き。」
 「ふん、何ですかこの話は。」
 「秋の夜の寒い時期に、窓から若い良さそうな男が見えたから、後をつけていって、
 屋敷に侵入。侍女の残り香をかいで、最後に詩を読む。」
 「ははははは。変態か。不思議な人ですねぇ。当時は普通なのかな。」
 「その男のほうもかなり...だいたい笛吹きながら出歩くってどうみたいな。ところ
 で、『追風用意』って言葉が気に入ったのですが、まるで船乗りの号令のような。追
 風用〜意!とか。」
 「ははは、そんなことはないけどね、確かに趣のある言葉だね。風下に居る人によい
 香りが漂うようにって、そういうことしてたんだね。」
2006/07/30(Sun)

第四十三段 春の暮つかた
 春の暮つかた、のどやかに艶(エン)なる空に、賎(イヤ)しからぬ家の、奥深く、
 木立(コダチ)もの古(フ)りて、庭に散り萎(シヲ)れたる花見過(ミスグ)しが
 たきを、さし入(イ)りて見れば、南面(ミナミオモテ)の格子皆おろしてさびしげ
 なるに、東(ヒガシ)に向きて妻戸(ツマド)のよきほどにあきたる、御簾 (ミ
 ス)の破れより見れば、かたち清(キヨ)げなる男の、年廿(ハタチ)ばかりにて、
 うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文(フミ)をくりひろ
 げて見ゐたり。 
 
 いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。 
 
 ※
 春もくれゆく頃、のどやかで美しい空の下、下賎のものとは思われない家の、奥が深
 く、立派な木立、庭に散り萎れる花、見過ごし難い雰囲気に、ついつい立ち入って見
 てみれば、南側の格子戸は皆降ろされ人気もなかったけれど、東向きの妻戸が丁度開
 いていたので、御簾の破れより見てみれば、さわやかな感じの男が、二十歳ぐらいだ
 ろうか、リラックスしてはいるけれど、奥ゆかしくも、のどやかな表情で、机の上に
 本を広げて見入っていた。
 
 どのような方なのか、尋ねて聞いてみたいものだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、不法侵入に覗きですよ。」
 「はははは、それに相手は男だしね。おまけにどういう人なのか知りたいって。」
 「おかしな人だ。」
 「でもね、坊主になっても色々考え悩むのだよ。後悔したりね。ああいう感じになる
 のもありだったか、ってね。」
 
 妻戸:今で言えば両開きの窓のこと。
2006/07/23(Sun)

第四十二段 唐橋中将といふ人の子
 唐橋中将(カラハシノチユウジヤウ)といふ人の子に、行雅僧都(ギヤウガノソウ
 ヅ)とて、教相(ケウサウ)の人の師(シ)する僧ありけり。気(ケ)の上る病あり
 て、年のやうやう闌(タ)くる程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難(ガタ)かりけ
 れば、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまど
 ひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞(マヒ)の面(オモテ) のやうに見
 えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂(イタダキ)の方 (カタ)につ
 き、額のほど鼻になりなどして、後(ノチ)は、坊(ボウ)の内の人にも見えず籠
 (コモ)りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。 
 
 かゝる病もある事にこそありけれ。 
 
 ※
 唐橋の中将という人の子に、行雅僧都と言う役職にあり、宗教理論の先生をしている
 お坊さんが居た。逆上する病の人だったが、壮年を少し過ぎたころ、鼻の中がふさが
 り、息もしにくくなったので、様々な治療をしたのだけれど、益々悪くなって、目・
 鼻・額なども形が変わるほど腫れてしまい、それが顔を覆って、物も見えなくなり、
 二の舞の面のように醜く、ただただ恐ろしい、鬼のような顔になってしまって、目は
 頭のてっぺんの方へ、額の場所が鼻になったりして、その後、寺の人々からも姿を消
 すかのように籠もってしまい、数年の後、さらに病状が悪化して、亡くなってしまっ
 た。
 
 こんな病気もあるところにはあるものだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、奇病ですよ。」
 「最後の『ある事にこそありけれ。』というのがどういう意味なのか引っかかる
 ね。」
 「私なりに解釈すると、人々が病だと言うぐらい癇癪を起こしていた。だからそれに
 相応しい容貌になってしまった。というところでしょうか。」
 「仏に仕え、さらに人々の上に立てるような立派な人物ではなかったということか
 な。」
 
 唐橋中将:源雅清参議中将のこと。
 僧都:僧官の一つ。僧正(そうじよう)の次の位。
    とはいっても僧正には、大僧正・僧正・権僧正とあります。僧都も同じく。
 二の舞:安摩(あま)の舞の次にそれを真似て滑稽に舞う舞。今でも使う言葉ですね。
2006/07/16(Sun)

第四十一段 五月五日賀茂の競べ馬
 五月五日(サツキイツカ)、賀茂(カモ)の競(クラ)べ馬を見侍りしに、車の前に
 雑人(ザフニン)立ち隔(ヘダ)てて見えざりしかば、おのおの下(オ)りて、埒 
 (ラチ)のきはに寄りたれど、殊(コト)に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやう
 もなし。 
 
 かかる折に、向ひなる楝(アフチ)の木に、法師の登りて、木の股についゐて、物見
 るあり。取りつきながら、いたう睡(ネブ)りて、落ちぬべき時に目を醒(サ)ます
 事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危(アヤ
 フ)き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝ
 に、「我等が生死(シヤウジ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て
 日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「ま
 ことにさにこそ候(サウラ)ひけれ。尤(モツト)も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後
 を見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。 
 
 かほどの理(コトワリ)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心
 地して、胸に当りけるにや。人、木石(ボクセキ)にあらねば、時にとりて、物に感
 ずる事なきにあらず。 
 
 ※
 五月五日に行われる、賀茂神社の競馬を見に行ったときのこと、車からでは人垣に隔
 てられて見えなかったので、車を降り、柵の際まで寄っていこうとしたのだけれど、
 とにかく大勢の人が居て、分け入る隙もなかった。
 
 そんな時、向こうに見えるオウチの木に、法師が登って、木の股のところで跪いて、
 物見をしていた。木の上に居るにもかかわらず、眠り込み、落ちそうになると目を覚
 ます、そんなことを繰り返していた。これを見た人々は、嘲り笑い、「世の中にはア
 ホな奴が居るもんだ。あんなに危ない枝の上に居て、よく眠れるものだ。」と言った
 ので、ふと思ったまま「我々にだって生死の分かれ目が、すぐそこまでやって来てい
 るのかもしれない。それを知らずに、物見て日々を過ごす、おろかである事はなお勝
 っているじゃないか。」と言ってみたら、目の前に居た人々も、「まったくその通
 り。おろかなことだと思いますよ。」と言って、皆、後ろを振り返り、「ここにお入
 りなさい」と、場所を空け、招き入れてくれた。
 
 この程度のことなら、誰だって日ごろ思っていることなのだろうけれど、突然、思い
 もかけないところで聞いたからこそ、心の奥底に響いたのだろうね。人は木や石では
 ない、どんな時だって、ものを考えない事はないのだよ。
 
 ※
 「ご隠居はん、当時の人々は人間が大きいですね。今だったら、言葉の中身より、言
 った人物によって受け入れたり、反発したりしませんか。」
 「そうだね、『説教臭いんだよじじい』とか言われるかもしれないね。でも、人は木
 石ではないというのは大事なところだよ。」
 「木石ではないかもしれませんが、獣化しているような気がしてならないのです
 が...。」
2006/07/09(Sun)

最新  24.. 20.. 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 ページ


Resbo-2005 B - a (RaKuGaKiNoteTopPage)