週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

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第七十九段 何事も入りたゝぬさましたるぞよき
 何事も入りたゝぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔にや
 は言ふ。片田舎(カタヰナカ)よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさ
 しいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、自らもいみじと思へる気
 色、かたくななり。
 
 よくわきまへたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ。
 
 ※
 どんな事にでも口を突っ込まないほうがいいんだな。立派な人は、たとえ知っている
 事でも、得意顔に言ったりはしない。田舎者ほど、何でも知っているかのような顔を
 する。だから、おのが不明を恥じるようなこともあるけれど、自分で偉いだろうと思
 うようなそのそぶり、とってもたちが悪い。
 
 よく知った分野の事柄には、必ず口が重く、聞かれない限り発言しないことこそ、立
 派だと思うんだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、医者に診察してもらう前に、カゼだと思うと言うようなものです
 ね。」
 「そう、世の中には知ったかぶりする人が多いからね。本当のところはわからないの
 に、その自信はどこから沸いてくるのかと思うね。」
 「私の仕事でもそうですよ。素人のほうが答えを決め付けている場合があります。専
 門家の意見を聞く謙虚な人が減ったという感じがします。」
 「まぁ一億総評論家時代だからね。」
 「自分の意見を持つこと自体はいいと思いますけど、大抵は無責任なんですよ。」
 「...。お互い気をつけよう。」
2007/04/29(Sun)

第七十八段 今様の事どもの珍しきを
 今様(イマヤウ)の事どもの珍しきを、言ひ広め、もてなすこそ、またうけられね。
 世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。
 
 いまさらの人などのある時、こゝもとに言ひつけたることぐさ、物の名など、心得た
 るどち、片端(カタハシ)言ひ交し、目見合(メミア)はせ、笑ひなどして、心知ら
 ぬ人に心得ず思はする事、世慣れず、よからぬ人の必ずある事なり。
 
 ※
 最近流行の事などの目新しさを、言い広め、もてはやすなんて、これまたよくない
 な。世の中に馴染んでしまうまで知らない人の方が、カッコイイよ。
 
 初対面の人が居る中で、こちらで言い馴れた言葉、物の名など、心得た者同士、片言
 の話しで意思疎通をし、目を見合わせ、笑ったりするのは、まだよく知り合っていな
 い人の居心地を悪くする行為で、世の中を知らない、無教養な奴によくあることだ
 な。
 
 ※
 「ご隠居はん、トレンドを追いかけるのは、軽佻浮薄だということですか。」
 「そうではなく、追いかけてもいいのだよ。ただ、言い広めたり、もてはやす、その
 行動を批判しているのだよ。そんな物知りませんよと言う感じで居ようよって。」
 「なるほど。読み返してみると、前段も行動を批判していますね。」
 「この段の後半も行動を批判しているよね。」
 「新しく引っ越してきた主婦が子供を連れて公園へ行くと、古株の主婦達がコソコ
 ソ、クスクスって光景が...。」
 「ははは、ドラマの見すぎ。それも30年も前の。」
 
 
 (自分に向かって)少し補足説明を。
 後半の最後「世の中を知らない、無教養」とは、自分達の言い馴れた言葉、物の名
 は、一般社会でも理解されているという思い込みを批判しているわけです。
2007/04/21(Sat)

第七十七段 世の中に、その比
 世中(ヨノナカ)に、その比、人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、いろふべきに
 はあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられ
 ね。ことに、片ほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかで
 かばかりは知りけんと覚ゆるまで、言ひ散らすめる。
 
 ※
 世の中で、今、最も注目されていることが話題に上ったとき、そのことに触れるべき
 立場ではない人が、よく知っているからと、人に語り聞かせたり、尋ね回ったりする
 のは、よくないな。特に世間から離れているはずの聖法師がだよ、世の中の人の事
 を、自分の事のように調べ上げ、何でそんなに詳しく知っているのだと思われるま
 で、喋り散らして歩くなんてね。
 
 ※
 「ご隠居はん、ここ何段かこんな感じですね。ずっと法師批判。」
 「そういう法師が多いのだろうね。」
 「まぁ今でも芸能リポーターみたいな人は多いですからね。」
 「案外兼好自身のことだったりして。」
 「ありえますが...。だとしたらこれは反省文ですね。」
2007/04/09(Mon)

第七十六段 世の覚え花やかなるあたりに
 世の覚え花(ハナ)やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中
 に、聖法師(ヒジリボウシ)の交じりて、言ひ入れ、たゝずみたるこそ、さらずとも
 と見ゆれ。
 
 さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。
 
 ※
 賑やかな街中に、嘆きも喜びも満ち、人も多く行き来しているその中に、聖法師が一
 人、声をかけては、立ち止まっている、そんなことしなくてもと思うのだけどね。
 
 どんな理由があろうが、法師は人と距離を置くべきだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、道に迷った坊主が一人、ナンパじゃなく、道を尋ねても相手にされな
 いと言うことでしょうか。」
 「いやぁ出家して坊主になって、寂しいのだよ。人が恋しいと言うかね。」
 「祇園のバーで一杯飲んで、街中に出ては酔った勢いで通行人にからむ。」
 「今も昔も坊主というものは...ってそういう話なのか?前段では世間と離れ穏やか
 に暮らすのが楽しいと言っていたけど、そう簡単ではないんだよ。」
2007/04/01(Sun)

第七十五段 つれづれわぶる人は
 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝ方なく、たゞひとりあるのみこそ
 よけれ。
 
 世に従へば、心、外(ホカ)の塵(チリ)に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、
 よその聞きに随(シタガ)ひて、さながら、心にあらず。人に戯(タハブ)れ、物に
 争ひ、一度(ヒトタビ)は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別(フン
 ベツ)みだりに起りて、得失(トクシツ)止む時なし。惑ひの上に酔(ヱ)へり。酔
 ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。
 
 未(イマ)だ、まことの道を知らずとも、縁(エン)を離れて身を閑かにし、事にあ
 づからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事
 (ニンジ)・伎能(ギノウ)・学問等の諸縁(シヨエン)を止めよ」とこそ、摩訶止
 観(マカシクワン)にも侍れ。
 
 ※
 退屈だと不満を言うなんて、どういうつもりなんだ。人付き合いも無く、ただ一人で
 居るのがいいんじゃないか。
 
 俗世に暮らせば、気持ちが、他のどうでもいいことに囚われ惑いやすくなり、人と交
 われば、言葉は、気遣ったものとなり、まるで、本心からではなくなってしまう。
 人と騒いだり、物事を争ったり、ある時は恨み、ある時は喜ぶ。そんな風に、きりが
 無い。常に計算高く、損得を考え続ける。惑いの中で我を忘れる。我を忘れるような
 ことに夢中になる。慌しく過ごしては、大切なことはボケたように忘れている、人皆
 このような状態だ。
 
 未だに、人として正しい生き方がわからなくても、世間を離れて穏やかに暮らし、俗
 事に関わらず心を安らかにできれば、しばらくは楽しく過ごすことができるだろう。
 「生活・人事・技能・学問等とのかかわりを止めよ」と摩訶止観にも見ることができ
 る。
 
 ※
 「ご隠居はん、序段で「退屈だ〜」と言ってた同じ人とは思えませんねぇ。」
 「修行して成長したんでしょう。」
 「人は成長すると、皮肉屋になるんですね。」
 「あぁなるほど。」
 
 摩訶止観:天台宗の修行法を詳しく述べた書物。
2007/03/25(Sun)

第七十四段 蟻の如くに集まりて
 蟻(アリ)の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(ワシ)る人、高きあり、賤
 (イヤ)しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕(ユフ
 ベ)に寝(イ)ねて、朝(アシタ)に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪(ムサボ
 リ)り、利を求めて、止む時なし。
 
 身を養ひて、何事をか待つ。期(ゴ)する処(トコロ)、たゞ、老と死とにあり。そ
 の来る事速かにして、念々(ネンネン)の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しび
 かあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利(ミヤウリ)に溺(オボ)れて、先途
 (センド)の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住(ジ
 ヤウヂユウ)ならんことを思ひて、変化(ヘンゲ)の理(コトハリ)を知らねばな
 り。
 
 ※
 蟻のように群がって、東西に急ぎ、南北に走る人、身分の高い者も居れば、低い者も
 居る。老人も居れば、若者も居る。行く所あれば、帰る家もある。夜寝て、朝起き
 る。何のためにこんな事をしているのだろう。生を貪り、利を求めて、止まる所がな
 い。
 
 健康を気遣って、何を期待する。やってくるのは、ただ、老いと死のみ。そうなるの
 はあっという間で、一分一秒止まることはない。これを待つ間、何を楽しめるのだろ
 う。惑える者は、恐れを知らない。名利に溺れ、先の短いことを考えないからだ。愚
 かな人は、また、これを悲しむ。永久不変なんてあるだろうか、人の姿は所詮仮のも
 のだという事を知らないからだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、久々に愚痴ってますねぇ。」
 「今も同じだね。ただ、だからといって何もしなくて良いということは無いと思うけ
 れど。」
 「同感です。」
 「ところで、『蟻のように群がって』という表現がこの時期あったんだね。」
 「同じこと考えてました。700年前から一般的に通じる表現なんですね。」
 「もっと観察していたら、ファーブルみたいになれたかもよ。」
 「そこまで....。」
 
 さて、『蟻のように群がって』の解釈は今も昔も同じなのでしょうが、『変化の理』
 はどうなのでしょう?この部分を普通に現代語訳すれば『永久不滅なんて無いのだ、
 一切は変化し続けるのだと知らないからだ。』となるのでしょう。しかし、老いや死
 を悲しむ人に向かって、そんな事言っても何の説得力も無い。慰めにもならない。一
 体『変化の理』とはどんなことを言っているのでしょう。宗教観も混じっていて、理
 解が難しいのでしょうか。
2007/03/21(Wed)

第七十三段 世に語り伝ふる事
 世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(ソラゴト)なり。
 
 あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月(トシツキ)過ぎ、境(サカヒ)
 も隔(ヘダタ)りぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止(トド)めぬれ
 ば、やがて定まりぬ。道々の物の上手(ジヤウズ)のいみじき事など、かたくななる
 人の、その道知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信
 も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。
 
 かつあらはるゝをも顧(カヘリ)みず、口に任(マカ)せて言ひ散らすは、やがて、
 浮きたることと聞(キコ)ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひし
 まゝに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々う
 ちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐し
 き事なり。我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の
 興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮(セン)なくて聞きゐ
 たる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。
 
 とにもかくにも、虚言多き世なり。たゞ、常にある、珍らしからぬ事のまゝに心得た
 らん、万違ふべからず。下(シモ)ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は
 怪しき事を語らず。
 
 かくは言へど、仏神(ブツジン)の奇特(キドク)、権者(ゴンジヤ)の伝記、さの
 み信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗(セゾク)の虚言をねんごろに信じたるも
 をこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしら
 ひて、偏(ヒトヘ)に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。
 
 ※
 噂話は、本当に意味がない、多くはみな嘘っぱちだ。
 
 事実より大げさに人はものを言うものなのに、ましてや、年月が経てば、遠慮も無く
 なり、言いたいままに言ったり、書いたりして、やがてそれが事実となってしまう。
 それぞれの分野を極めた人の偉大さを、教養の無い人は、そのことに疎いことは、お
 いておいて、神様のように言うのだけれど、少しでも知っている人は、簡単に、信奉
 したりしないものだ。だから噂に聞くのと自分で見るのとは、何事も違うものだ。
 
 いつかばれるだろう事も考えず、口に任せて言いふらせば、やがて、周りから浮いて
 しまうだろう。また、自分でも本当なのかと思いながら、人の言うままに、得意にな
 って言うのは、その人の虚ではない。本当らしく所々ごまかしながら、よく知らない
 にもかかわらず、それらしく、つじつまを合わせて語られる嘘は、恐ろしいものだ。
 自分の面目のために他人が言う嘘にたいしては、当人は強く否定しないものだ。大勢
 が関心を寄せる噂というものは、自分だけ「そんなあほな」なんて言う気にもなれず
 聞いていると、その嘘の証人にされたりする、こうして噂話というのはできてゆくん
 だな。
 
 とにもかくにも、ウソの多い世の中だ。ただ、常に思うのは、珍しいことではないさ
 と軽く受け止めておけば、おおかた間違いない。軽薄な奴の話は、耳を疑う物ばか
 り。分別ある人は怪しい物事は言わないものだ。
 
 そうは言っても、神仏の霊験、権者の伝記、など信じるなというのではない。これ
 は、世間の噂を有難く信じた愚かなことと同じで、「ありえない」などと言っても仕
 方がない、大方は、適当に扱い、頑なに信じず、また、疑って馬鹿にしてもいけない
 ということ。
 
 ※
 「ご隠居はん、マスコミのことですか、これは。」
 「そう、そう言おうと思っていた。」
 「納豆のことを知らない人は、神のように扱い、知っている人は簡単に信じない。」
 「そっちか。」
 「え?では、神社参拝の作法を知らない人は、神のように扱い、知っている人は抗議
 する。」
 「・・・」
 「わかってますって。」
 
 権者:簡単に言えば神仏の化身。
 下ざまの人なんて現代語訳するのに随分迷いました。他の語句もなんだかしっくりし
 ない物が多い段でした。
 
 昨日、今日と「不都合な真実」を読んでました。私の今の気持ちとしては、この段と
 同じで、『適当に扱い、頑なに信じず、また、疑って馬鹿にしてもいけないというこ
 と』です。
2007/03/04(Sun)

第七十二段 賤しげなる物
 賤(イヤ)しげなる物、居(ヰ)たるあたりに調度(テウド)の多き。硯(スズリ)
 に筆の多き。持仏堂(ジブツダウ)に仏の多き。前栽(センザイ)に石・草木の多
 き。家の内に子孫(コウマゴ)の多き。人にあひて詞(コトバ)の多き。願文(グワ
 ンモン)に作善(サゼン)多く書き載せたる。
 
 多くて見苦しからぬは、文車(フグルマ)の文(フミ)。塵塚(チリヅカ)の塵。
 
 ※
 うっとうしいものといえば、身の回りに物が多いこと。硯に筆が沢山あること。持仏
 堂に仏像が沢山あること。前栽に石・草木が多いこと。家の中に子や孫が大勢いるこ
 と。人と会ったときの長い無駄話。願文に善行を多く書き連ねること。
 
 多くても見苦しくないのは、本棚の本。ゴミ置場のチリ。
 
 ※
 「ご隠居はん。今風に言えば、ウザイ事ですか。そりゃそうやろって思いますけど、
 この当時の生活なんて質素なはずなのに、物が多くてうっとうしいとは。」
 「物があって当たりまえの今から見ればそうだけど、二、三の物があるだけでうっと
 うしかったのだろうね。」
 「ご隠居はんの生活も質素なはずなのに、家には物があふれているそうで。」
 「見たのかね。」
2007/02/25(Sun)

第七十一段 名を聞くより
 名を聞くより、やがて、面影(オモカゲ)は推(オ)し測(ハカ)らるゝ心地(ココ
 チ)するを、見る時は、また、かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ、昔物語
 (ムカシモノガタリ)を聞きても、この比(ゴロ)の人の家のそこほどにてぞありけ
 んと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。
 
 また、如何なる折ぞ、たゞ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中(ウチ)
 に、かゝる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくあり
 し心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
 
 ※
 名前を聞くと、すぐ、その人の姿かたちが思い浮かぶのだけれど、実際会うと、やは
 り、思ったとおりの顔をした人はいないし、昔話を聞いたりしたときも、今あるあの
 家の辺りだろうかとか、人物も、今いる人々に重ね合わせたりしてしまうのは、誰も
 がすることだよな。
 
 また、何時だったかなぁ、たった今、人が言ったことも、目に見えるものも、記憶の
 中に、こういうことが前にもあった気がして、何時だったか思い出せなくても、本当
 にあった気がするのは、自分だけが経験することではないだろうな。
 
 ※
 「ご隠居はん。前半は徒然草を読んでいるとよくやりますよ。今の京都のあの辺りな
 のか、とか、でも、人物はさすがにないなぁ。」
 「後半は、デジャブのことかな。」
 「そう、そう言おうとしていたところです。」
 「この時代にも、書き記すほど知られていた普通の出来事だったわけか。」
2007/02/18(Sun)

第七十段 元応の清暑堂の御遊に
 元応(ゲンオウ)の清暑堂(セイシヨダウ)の御遊(ギヨイウ)に、玄上(ゲンジヤ
 ウ)は失せにし比、菊亭大臣(キクテイノオトド)、牧馬(ボクバ)を弾(タン)じ
 給ひけるに、座に著(ツ)きて、先(マ)づ柱(ヂユウ)を探られたりければ、一つ
 落ちにけり。御懐(オンフトコロ)にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、
 神供(ジング)の参る程によく干(ヒ)て、事故(コトユヱ)なかりけり。
 
 いかなる意趣(イシユ)かありけん。物見ける衣被(キヌカヅキ)の、寄りて、放ち
 て、もとのやうに置きたりけるとぞ。
 
 ※
 元応の頃清暑堂で行われた演奏会、玄上が盗まれた頃に当たるのだが、菊亭大臣は、
 牧馬を弾くため、座について、準備をしていると、柱という部品が一つ取れてしまっ
 た。懐に続飯を持っていたので接着してみると、神に供物を供えたりしているうちに
 よく引っ付き、問題なく演奏できた。
 
 どういう考えがあったのだろうか。被衣姿の観客が、牧馬に近づいて、柱を外して、
 元のように置いていったんだ。
 
 ※
 「ご隠居はん。大事な琵琶が盗まれてすぐ、それに次ぐ琵琶を、見知らぬ人間が近づ
 けるような場所に置いていたなんて、考えられませんねぇ。それにご飯粒で修理っ
 て。」
 「楽器の演奏者は修理道具を持ち歩くものなのかもね。ご飯粒が正式な道具なのかは
 分からないけれど。」
 「すぐ乾いてしまう物ですから、演奏のたびに準備するのでしょうか。変な話です
 ね。それと、この女がどうなったのか、この話の続きを知りたいものです。」
 
 
 元応:後醍醐天皇の時代。後醍醐天皇自身琵琶の名手だそうです。
 清暑堂:平安京内裏にある演奏会場の一つ。
 玄上、牧馬:琵琶の名器。この頃盗まれた玄上は2年後ある屋敷にあると言うこと
       で、六波羅探題の強制捜査を受、無事戻るそうです。
 菊亭大臣:藤原兼季。西園寺兼季とも。
 
 このあたりの話について詳しく書かれたサイトがありました。
 http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-godaigo-bunka.htm
 ここを読むと、政治的な謀略がありそうな感じも。
 
 玄上は以前にも盗まれたと言う話があります。
 その辺りはこちらのサイトで
 http://d.hatena.ne.jp/hananusubito/20070103
 
 柱:琵琶の一部。
 図解はこちらのサイトで。
 http://www.diana.dti.ne.jp/~pipars/bi5.html
 続飯(そくい):飯粒をつぶして造ったのり。現代の辞書にも載っているのでその
       まま使いました。
2007/02/17(Sat)

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