週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

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第二十段 某とかやいひし世捨人の
 某(ナニガシ)とかやいひし世捨人(ヨステビト)の、「この世のほだし持たらぬ身
 に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。 
 
 ※
 何とかという名の世捨て人が、「この世の何物もほしいとは思わない、ただ、空の移
 ろいには名残惜しさを感じるね」と言ったんだけど、ほんと、そう思うよ。
 
 ※
 「ご隠居はん、この人、詩人ですね。」
 「やっとわかったかね。」
 「ただの嫌味なおっさんかと思ってました。」
 「これこれっ。」
 「ところでこの段は、第五段の「配所の月、罪なくて見ん事」に似てませんか。」
 「たまには空を見上げてご覧なさい。きっと気持ちがわかるから。」
2006/02/15(Wed)

第十九段 折節の移り変るこそ
 折節(ヲリフシ)の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。 
 
 「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一
 きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあンめれ。鳥の声などもことの外(ホ
 カ)に春めきて、のどやかなる日影に、墻根(カキネ)の草萌(モ)え出(イ)づる
 ころより、やゝ春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折
 (ヲリ)しも、雨・風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくま
 で、万(ヨロズ)に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘(ハナタチバナ)は名にこそ負
 (オ)へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古(イニシヘ)の事も、立ちかへり恋(コヒ)し
 う思ひ出でらるゝ。山吹(ヤマブキ)の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべ
 て、思ひ捨てがたきこと多し。 
 
 「灌仏(クワンブツ)の比(コロ)、祭(マツリ)の比(コロ)、若葉の、梢(コズ
 ヱ) 涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せ
 られしこそ、げにさるものなれ。五月(サツキ)、菖蒲(アヤメ)ふく比、早苗( 
 サナヘ)とる比、水鶏(クヒナ)の叩(タタ)くなど、心ぼそからぬかは。六月(ミ
 ナヅキ)の比、あやしき家に夕顔(ユウガホ)の白く見えて、蚊遣火(カヤリビ) 
 ふすぶるも、あはれなり。六月祓(ミナヅキバラヘ)、またをかし。 
 
 七夕(タナバタ)祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(ヨサム)になるほど、雁
 (カリ)鳴きてくる比、萩(ハギ)の下葉(シタバ)色づくほど、早稲田(ワサ
 ダ) 刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(ノワキ)の
 朝 (アシタ)こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと
 古(フ)りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言
 はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破(ヤ)
 り捨(ス)つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。 
 
 さて、冬枯(フユガレ)のけしきこそ、秋にはをさをさ劣(オト)るまじけれ。汀
 (ミギハ)の草に紅葉(モミヂ)の散り止(トドマ)りて、霜いと白うおける朝( 
 アシタ)、遣水(ヤリミヅ)より烟(ケブリ)の立つこそをかしけれ。年の暮れ果
 ( ハ)てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものに
 して見る人もなき月の寒けく澄める、廿日(ハツカ)余りの空こそ、心ぼそきものな
 れ。御仏名(オブツミヤウ)、荷前(ノサキ)の使(ツカヒ)立つなどぞ、あはれに
 やんごとなき。公事(クジ)ども繁(シゲ)く、春の急ぎにとり重ねて催( モヨ
 ホ)し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺(ツヰナ)より四方拝(シホウハイ) に
 続くこそ面白(オモシロ)けれ。晦日(ツゴモリ)の夜(ヨ)、いたう闇(クラ)き
 に、松どもともして、夜半(ヨナカ)過ぐるまで、人の、門(カド)叩き、走りあり
 きて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑(マド)ふが、暁(ア
 カツキ)がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡(ナ)
 き人のくる夜とて魂(タマ)祭るわざは、このごろ都にはなきを、東(アヅマ)のか
 たには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。 
 
 かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地
 ぞする。大路(オホチ)のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、ま
 たあはれなれ。
 
 ※
 季節が移り変わるごとに、ものごとに感傷的になるよね。
 
 「もののはかなさは秋こそまされ」と人は言うけれど、それにもまして、一際心が奪
 われるのは、春の景色にこそあるんだな。
 鳥の声などもなんだか春めいて、のどやかな日の光のもと、垣根に草が萌え出す頃よ
 り、やや春が深くなり、霞がたなびき、花もやっと色鮮やかに咲きはじめると、丁度
 その時、雨・風の日が続いたりして、あっという間に散ってしまうんだ、だから青葉
 が育つ頃まで、何をしていても、ただ、気もそぞろになって仕方ないんだよね。
 花橘の香りが昔を思い出させるというのは有名だけれど、それよりも、梅の匂いのほ
 うが、昔のことも、恋しさも思い出してしまう。山吹の清らかさや、藤の頼り気ない
 姿にも、すべて、忘れられない思い出があるんだよ。
 
 「潅仏会の頃、葵祭りの頃、若葉の梢が涼しげに茂りゆくにしたがって、世のはかな
 さも、人の恋しさも増してゆく」と人が言っているのも、まったくその通りだね。
 皐月、菖蒲の葉を飾る頃、早苗とる頃、水鶏が鳴いたりすると、心細くなるんだよな
 ぁ。
 水無月の頃、寂れた家に夕顔の白い花が咲いていて、蚊取り線香の煙が漂っていたり
 するのも、なんだかしんみりする。水無月のお祓い、これもまたそうなんだ。
 
 七夕祭りは優雅なものだな。だんだん夜が寒くなってくると、雁が鳴いて飛んでた
 り、萩の下葉が色づいたり、早稲田を刈って干したりと、書きたい事は、秋が一番多
 いかな。それに、台風が過ぎ去った後の朝というのがまたいい感じなんだな。
 言い続ければ、みな源氏物語や枕草子などで書き古されたことだけど、同じ事を、ま
 た、今更のように言ってはいけないこともないだろう。思ったことを言わないと胸が
 つかえることだし、筆に任せた悪気のない遊びなんだし、それに破り捨てるかもしれ
 ないものだから、人が見ることもないだろうし。
 
 さて、冬枯れの景色こそ、秋に全然劣るものではないよね。水際の草に紅葉の葉が引
 っ掛り、霜が真っ白になるほど降りた朝、そのせせらぎより煙が立ち上がるのもなか
 なか美しいものだ。
 年の暮れも押しせまり、人それぞれ忙しく過ごす頃は、他にない物寂しさがある。忙
 しさのあまり見上げる者もない月が寒さのためか澄んでいる、二十日頃の空ほど、心
 細いと感じさせるものはないよね。
 仏様の名前を唱える行事や、御陵に供え物をする行事は、厳かでしんみりする。宮中
 の行事も沢山有るし、春の行事も合わせて催すのだから、大変だよね。悪鬼を追い払
 う儀式から四方の神に祈る儀式に続くのなんて面白いよ。
 晦日の夜、真っ暗な中、松明を手に、夜中過ぎまで、ご近所の、門を叩きながら、走
 り回っていたり、何事かが起こったかのように、大声で叫びながら、飛び回ったりし
 ていたのが、明け方が近づくにつれ、段々静かになっていくのも、一年が終わってゆ
 くって感じでなんとなく寂しくなるね。
 亡くなった人が帰ってくる夜だと言って魂を祭る行事は、この頃都ではなくなったけ
 れど、東の方では、今でも続いているというのも、なかなかいいものだ。
 
 こうして明けていく空の景色、一見昨日と変わらないけれど、気分が一新された心地
 がするよ。大通りに、門松が並んでいて、華やかで幸せそうなのも、また心にしみる
 よね。
 
 ※
 「ご隠居はん、困りました。”あはれ”って今まで肯定的に捉えていました。でも、
 どうやらものすごく感傷的で後ろ向きな感情なんですね。」
「まぁ無常観だからね。」
「それにしても、ものすごく暗いですね。春といえば普通、明るくキラキラしているも
のなのに、昔を思い出すとか言ってますよ。」
「若く、前途に希望があれば春は明るくきらめくんだよ。でもね、夢も希望もなくなる
と、昔を懐かしむようになるんだね。」
「まさかご隠居はんも、そうなんじゃないでしょうね。」
2006/02/05(Sun)

第十八段 人は己れをつゞまやかにし
 人は、己(オノ)れをつゞまやかにし、奢(オゴ)りを退(シリソ)けて、財(タカ
 ラ)を持たず、世を貪(ムサボ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富
 めるは稀(マレ)なり。 
 
 唐土(モロコシ)に許由(キヨイウ)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯
 (タクハ)へもなくて、水をも手して捧(ササ)げて飲みけるを見て、なりひさこと
 いふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝(エダ)に懸(カ)けたりけるが、
 風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬(ムス)びてぞ水も
 飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(ソンシン)は、冬の月に衾
 (フスマ)なくて、藁一束(ワラヒトツカ)ありけるを、夕べにはこれに臥(フ)
 し、朝(アシタ)には収(ヲサ)めけり。 
 
 唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記(シル)し止(トド)めて世にも伝へけ
 め、これらの人は、語りも伝ふべからず。 
 
 ※
 人は、己を慎ましやかにし、贅沢をせず、財産も持たず、地位に執着しないと、肝に
 銘ずるべきだね。昔から、立派な人で資産家というのは稀だよ。
 
 昔中国にいた許由という人は、さらに、家財なども持たず、水すら手で捧げるように
 して飲んでいたから、ひょうたんで作った器を持たせてあげようと、ある時、木の枝
 に掛けておいたんだ、すると風に吹かれて鳴りだしたそれを、「やかましい」と捨て
 てしまった。だからその後も、手で掬って水を飲むことになったんだ。でもどんなに
 か、清々としたことだろう。
 孫晨は、冬に布団がなかったのだけれど、藁が一束有ったので、夜はこれをかけて寝
 て、朝には片付けたそうだ。
 
 昔の中国の人は、大事なことだと思ったからこそ、書き記し人々に伝えた、でも日本
 の人は、語り伝えようとしなかった。
 
 ※
 「ご隠居はん、この人、また怒ってますよ。」
 「肝に銘ずるべき人が大勢居たのだろうね。昔の中国には道徳教育のようなものがあ
 った。でも日本にはなかったからこのような人が増えたのだと。極端な例を出して批
 判しているね。」
 「でも、ご隠居はん。これは、昔の中国では道徳教育が必要だったけれど、日本には
 必要なかった。ところが昨今の世の中は狂っているぞ。とも読めますが。」
 「面白いこというね。そのほうが痛烈に聞こえるかな。現代の我々に対しても言える
 ことだけどね。」
 「そうなんですよ、日本人のモラルの高さを言うとき、それはいつの時代でも過去形
 なんですよね。」
2006/01/29(Sun)

第十七段 山寺にかきこもりて
 山寺にかきこもりて、仏に仕(ツカ)うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清ま
 る心地すれ。 
 
 ※
 山寺にこもり、仏に仕えると、退屈な気分もなく、心の濁りも清まる気がするよ。
 
 ※
 「ご隠居はん。第十五段から引き続き気分転換のお話ですか。」
 「そう、『小人閑居して不善をなす』というからね。退屈な日々を過ごすうち、心が
 濁ると。そうならないために、旅に出たり、音楽聴いたり、瞑想したり。方法は人そ
 れぞれということです。」
 「でもこれは、自分自身への言葉ではなく、他人に向かって言っているような気がす
 るのですが。。。」
2006/01/24(Tue)

第十六段 神楽こそ
 神楽(カグラ)こそ、なまめかしく、おもしろけれ。 
 
 おほかた、ものの音(ネ)には、笛・篳篥(ヒチリキ)。常に聞きたきは、琵琶(ビ
 ハ)・和琴(ワゴン)。 
 
 ※
 神楽というのは、優雅で、趣のあるものだ。
 
 よく奏でられる、楽器といえば、笛・たて笛。いつでも聞いていたいのは、琵琶、和
 琴だね。
 
 ※
 「ご隠居はん。男、女、政治、インテリア、散策、おしゃべり、読書、詩、旅、手紙
 ときて、とうとう音楽まできましたよ。」
 「庶民はどうだかわからないけれど、豊かな日常という感じだね。」
 「あと二百数十段、ネタが尽きないなんて...参考にしよう。」
 「参考にって、そう簡単ではないと思うよ。」
2006/01/15(Sun)

第十五段 いづくにもあれ
 いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地(ココチ)すれ。 
 
 そのわたり、こゝ・かしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いと目慣れぬ事
 のみぞ多かる。都へ便り求めて文やる、「その事、かの事、便宜(ビンギ)に忘る
 な」など言ひやるこそをかしけれ。 
 
 さやうの所にてこそ、万(ヨロヅ)に心づかひせらるれ。持てる調度(テウド)ま
 で、よきはよく、能(ノウ)ある人、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆ
 れ。 
 
 寺・社(ヤシロ)などに忍びて籠(コモ)りたるもをかし。 
 
 ※
 いずこであれ、少しのあいだ旅に出ると、新鮮な気持ちになれるよ。
 
 旅の途中、ここかしこ見て歩くと、そこが田舎びたところであったり、山里などなら
 ば、見慣れない物にたくさん出会える。都へ頼り求めて手紙を送る、「あの事や、こ
 の事、宜しく頼むよ。」なんて書いてみるのもいい感じ。
 
 そのような場所に居るからこそ、いろんな物事に目が行き届く。普段から持っている
 ような物も、良いものはさらに良く、働く人も、美しい人も、普段よりさらに輝いて
 見える。
 
 寺、社などに忍びやかに籠もったりするのもいいものだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、これって一筆啓上じゃないですか。」
 「そうだね。」
 「遠くに居る人への心情って言うのは、今も昔も変わらないのですね。」
 「それでは、これを和歌にしてもらいましょうか。」
 「・・・。」
2006/01/15(Sun)

第十四段 和歌こそ
 和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、言ひ出(イ)
 でつればおもしろく、おそろしき猪(ヰ)のししも、「ふす猪の床(トコ)」と言へ
 ば、やさしくなりぬ。 
 
 この比(ゴロ)の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌ど
 ものやうに、いかにぞや、ことばの外(ホカ)に、あはれに、けしき覚ゆるはなし。
 貫之(ツラユキ)が、「糸による物ならなくに」といへるは、古今集(コキンシフ)
 の中の歌屑(ウタクヅ)とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらと
 は見えず。その世の歌には、姿・ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく
 言いたてられたるも、知り難(ガタ)し。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書け
 る。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、まこと
 に、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されど、この歌も、衆議判(シュギハン)の
 時、よろしきよし沙汰(サタ)ありて、後にも、ことさらに感じ、仰(オホ)せ下さ
 れけるよし、家長(イヘナガ)が日記には書けり。 
 
 歌の道のみいにしへに変らぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠(ヨ)みあへる同
 じ詞(コトバ)・歌枕も、昔の人の詠めるは、さらに、同じものにあらず、やすく、
 すなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ。 
 
 梁塵秘抄(リヤウジンヒセウ)の郢曲(エイキヨク)の言葉こそ、また、あはれなる
 事は多かンめれ。昔の人は、たゞ、いかに言ひ捨てたることぐさも、みな、いみじく
 聞ゆるにや。 
 
 ※
 和歌ほど楽しいものはない。身なりの悪い者や、山賊のすることでも、歌にすると面
 白く、獰猛なイノシシも、寝転がるイノシシといえば、かわいくなるだろ。
 
 最近の歌は、一見上手く歌っているものはあるけれど、昔の歌のように、どうしてな
 のか、言葉の向こうに、ほのかな、情景が浮かんで来るものがないな。
 紀貫之の、「糸による 物ならなくに〜」という歌は、古今集の中では駄作だと言わ
 れ続けているけれど、今の人が詠まないような題材でもない。この時代の歌にも、歌
 風、ことばとも、似たようなものが多い。なのにこの歌だけ評価が低いのは、なぜだ
 ろう。源氏物語に、「糸による 物とはなしに〜」と引用されるぐらいなのにね。新
 古今の、「〜残る松さへ 峰にさびしき」という歌も同じように扱われているけれ
 ど、確かに、ちょっとどうかなとは思わなくもない。でもね、この歌も、選考会で
 は、よい作品だと評価され、その後にも、よかったねと、院が仰せくださったと、源
 家長の日記に書かれていたのだよ。
 
 和歌の道のみ昔から変わらないなどと言う事もあるけれど、どうだろ。今も詠まれる
 同じ詞、歌枕も、昔の人の詠むものは、それよりも、違いがあるね、簡潔で、素直、
 形も美しく、感動も深くなる。
 
 梁塵秘抄の郢曲の言葉というのが、また、感動することが多い。昔の人が、ただ、何
 気なく言ったことばでも、みな、素晴らしく聞こえるのかもな。
 
 ※
 「ご隠居はん。和歌なんてわかんない。」
 「なんのこっちゃ。」
 「和歌もわかりませんが、最近のヒット曲もわからなくなってきました。紅白は見て
 いないのですが、最近のヒット曲は幅広い世代から支持されていないそうです。」
 「昔からそうだよ。」
 
 「ところで、『あわれ』ってどう理解すればいいのでしょう。」
 「徐々にわかってくるでしょう。読み終わる頃に、どう理解したのか聞かせてもらい
 ましょうか。」

追記
どうも筆が進まなかったと言うか、キーが進まなかったのですが、よくよく考えて見
るとこの段は、ご隠居はんとやってませんね。数ヶ月前に予習していたので、すっか
りやった気分でした。そこで是非お聞きしたいのですが、『いかにぞや、ことばの外
(ホカ)に、あはれに、けしき覚ゆるはなし。』という部分で、テキスト本などでは
『けしき』=『景色』と読んでいますけど、『気色』とは読めませんか?そう読むと、
強引ではありますが『まさにそうだ、と言う言葉の外に、感動が、顔に表れるような
ことがない。』となるのではと。いかがでしょう。       2006/01/12(Thu)
2006/01/11(Wed)

第十三段 ひとり燈火のもとに
 ひとり、燈火(トモシビ)のもとに文(フミ)をひろげて、見ぬ世の人を友とする
 ぞ、こよなう慰むわざなる。 
 
 文は、文選(モンゼン)のあはれなる巻(マキ)々、白氏文集(ハクシノモンジ
 フ)、老子(ラウシ)のことば、南華(ナンクワ)の篇(ヘン)。この国の博士(ハ
 カセ)どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。 
 
 ※
 一人、明かりの下書物を広げて、昔の人を友とすると、とても満ち足りた時を過ごす
 ことができる。
 
 お薦めは、美しい文章の詰まった文選の各巻、白氏文集(白楽天の詩文集)、老子、
 南華の篇(荘子)。この国の学者達の書物も、昔のものには、素晴らしいものが多い。
 
 ※
 「ご隠居はん、前段もそうなんですけど、ほんとこの人、友達いませんねぇ。」
 「いや、友達が居ないというより、そんな教養人が周りに居ないと皮肉を言っている
 のだよ。」
 「貴族社会に教養人が居ないのですか。」
 「”今”の学者も詩人も”今”の権力者におもねているように見える。そういう状況
 を苦々しく思っていたのだろうね。どんな美辞麗句もおべんちゃらに聞こえると。」
 「あぁなるほど。識者と呼ばれる人々の発言にはその時代なりのバイアスがかかるっ
 てことですね。」
 「昔の人には現代に対して利害が見えないからね、だから心が落ち着くんだね。」
 「と言う事は、兼好の徒然草も書かれた当時なりの偏向があるはずでは?」
 「うん、だから直接名指ししたりせず、古人にまつわる出来事や古文を引用したりし
 ているのだろうね。それが現代にも通ずる普遍性のもとになったのかもしれない
 ね。」
2006/01/02(Mon)

第十二段 同じ心ならん人と
 同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく
 言ひ慰(ナグサ)まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違(タガ)は
 ざらんと向ひゐたらんは、たゞひとりある心地やせん。 
 
 たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いさゝか違(タガ)
 ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎(ニク)み、「さるから、さぞ」
 ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少し、かこつ方(カタ)も我と
 等しからざらん人は、大方のよしなし事言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友に
 は、はるかに隔(ヘダ)たる所のありぬべきぞ、わびしきや。 
 
 ※
 同じような感性を持っている人とうちとけて、楽しい事も、世間のつまらない出来事
 にも、遠慮せず意見を言い合えればとても充実しているのだけれど、そういう人って
 なかなか居ないもの、だから相手に合わせようと気を使ったりして話している、これ
 には一人で居るのと変わらない虚しさがあるよ。
 
 どちらかが言いそうな事に、「なるほど」と聞いているのは満足できるし、少し意見
 が違う人とは、「私はこう思う」などと論じ合い、「だから、こうなんだ」と話を深
 められれば、それなりに楽しいとは思うのだけれど、実際は、少しの、愚痴さえも意
 見の合わない人ばかりで、他愛の無い世間話はできても、心からの友には、遠く及ば
 ず、さびしく思うよ。
 
 ※
 「ご隠居はん、我々は『同じ心ならん人』ですよね。」
 「まぁそんな風に確認されるのもなんだけど、『同じ心なる人』と言い切れないとこ
 ろは現代に通ずるところがあるね。人間の物事に対する考え、感じ方が複雑なんだろ
 うね。」
 「兼好が言うように、なんでも話し合える友というのはそう多くは無いですね。今ま
 で、ひとが「寂しい」という意味が理解できなかったんですが、これでわかりまし
 た。」
 「時代は違えども、上司と部下、同僚、友人、恋人、家族。全ての人間関係に共通し
 ているね。」
2005/12/25(Sun)

第十一段 神無月のころ
 神無月(カミナヅキ)のころ、栗栖野(クルスノ)といふ所を過ぎて、ある山里に尋
 ね入(イ)る事侍りしに、遥かなる苔(コケ)の細道を踏み分けて、心ぼそく住みな
 したる庵(イホリ)あり。木の葉に埋(ウヅ)もるゝ懸樋(カケヒ)の雫(シヅク)
 ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(アカダナ)に菊・紅葉(モミヂ) など
 折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。 
 
 かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子(カウ
 ジ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しこと
 さめて、この木なからましかばと覚えしか。 
 
 ※
 神無月のころ(旧暦10月)、栗栖野という所を過ぎて、ある山里に踏み入れたとき、
 苔生す長い長い山道を歩いていくと、頼りなげな庵が建っているのが見えた。山から
 水を引く樋には木の葉が積もっていてそこから滴る雫の音、他には露ほどの音もな
 い。仏前の棚に菊や紅葉が供えられているのを見て、やっと、人が住んでいるのだな
 ぁとわかるようなところだった。
 
 こんな所でよく暮らせるものだと感心していると、その先の庭に、大きな蜜柑の木が
 あって、たわわに実っているのだけれど、その周りを頑丈に囲っているのだよ、少し
 白けたな、この木さえなければすごくいい感じなのにと思ったよ。
 
 ※
 「ご隠居はん、徳大寺にも...」
 「ははは、いやまちなさい、これはまた少し違うのだよ。人間にはいろんな欲がある
 だろう。質素な生活をしてでもブランド物を身につけたり、貯金をうんと持っていた
 り。世捨て人のような生活をしながら、人も来ないような山奥にある蜜柑の実を必死
 で守るところに人間の欲というか、可笑しさが見て取れるのだよ。」
 「でも兼好も勝手ですよね。この木さえなければ絵になるのにって。他人の生活なの
 に。」
 「それが彼の欲なんだろうね。」
2005/12/18(Sun)

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