寸陰惜(スンインヲ)しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠 る人のために言はば、一銭軽(イツセンカロ)しと言へども、これを重ぬれば、貧し き人を富める人となす。されば、商人(アキビト)の、一銭を惜しむ心、切(セツ) なり。刹那(セツナ)覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終(ヲ)ふ る期(ゴ)、忽(タチマ)ちに至る。 されば、道人(ダウニン)は、遠く日月(ニチグワツ)を惜しむべからず。たゞ今の 一念(イチネン)、空(ムナ)しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が 命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日(ケフ)の暮るゝ間、何事を か頼み、何事をか営まん。我等(ワレラ)が生ける今日の日、何ぞ、その時節(ジセ ツ)に異ならん。一日のうちに、飲食(オンジキ)・便利(ベンリ)・睡眠(スヰメ ン)・言語(ゴンゴ)・行歩(ギヤウブ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。そ の余りの暇幾(イトマイク)ばくならぬうちに、無益(ムヤク)の事をなし、無益の 事を言ひ、無益の事を思惟(シユヰ)して時を移すのみならず、日を消(セウ)し、 月を亘(ワタ)りて、一生を送る、尤(モツト)も愚かなり。 謝霊運(シヤレイウン)は、法華(ホツケ)の筆受(ヒツジユ)なりしかども、心、 常(ツネ)に風雲(フウウン)の思(オモヒ)を観(クワン)ぜしかば、恵遠(ヱヲ ン)、白蓮(ビヤクレン)の交(マジハ)りを許さざりき。暫(シバラ)くもこれな き時は、死人に同じ。光陰(クワウイン)何のためにか惜しむとならば、内(ウチ) に思慮なく、外(ホカ)に世事(セジ)なくして、止まん人は止み、修(シュ)せん 人は修せよとなり。 ※ 少しの時間を惜しむ人は居ない。これは、よくわかっているからか、愚かなためか。 愚かにも軽んずる人のために言えば、一銭は小銭だといっても、これが集まれば、貧 しい人も豊かな人となる。だからこそ、商人の、一銭を惜しむ心というのは、真剣な のだ。一瞬を感じなくても、時は流れ止まることがないのだから、命の尽きるとき が、いずれやって来る。 そうであるから、仏道修行者は、遠い将来を思ってはいけない。ただ今の一瞬を、無 駄に過ごさないようにすべきだ。もし、人がやって来て、命が、明日には必ず尽きま すよと知らせてくれたとして、今日の暮れるまでに、何を願い、何をするのだ。我等 が生きている今日という日が、なぜ、その日と違うといえるのだ。一日のうちに、飲 食、排泄、睡眠、会話、移動、止めることができない事で、多くの時間を失う。その 残りの短い時間で、意味の無い事をし、意味の無い事を言い、意味の無い事を考えて 時を過ごし、日を費やし、月を経て、一生を送ってしまうのは、最も愚かなことだ。 謝霊運は、法華経を翻訳した人だけれども、心は、常に自然を観照していたので、恵 遠は、白蓮社とのかかわりを許さなかった。少しも時間がないのでは、死んでいるの と同じ。月日をなぜ惜しむのかと問われれば、心に思うことがあり、他人とのかかわ りがあるからこそ、止めたければ止められるし、修めたければ修められるからだとい うことだそうだ。 ※ 「ご隠居はん、なんだかちょっと...」 「お前が言うなと。」 「はははは、そう、そのとおりです。窓の隙間から美男子を見ていたり、女の残り香 がどうのとこうのと言っている同じ人の言葉とは思えませんよ。」 謝霊運:[385〜433]中国、南朝宋の詩人。官吏としてはこれと言った業績はなかった らしいが、文才があり、山水を題材に多くの作品を残している。法華経を漢 訳したほどの人物ではあるが、詩人であり続けたことで、不信心者だと思わ れたのだろうか。 恵遠 :[334〜416]仏僧。白蓮社という念仏結社をつくる。 最後の二、三行は、そのまま現代語訳すると意味不明なので、散々考えたのですが、 結局意味不明な文章になってしまいました。修行の時間がない=死人と同じ。だから 月日を大切にしても修行しないのでは死んでいるのと同じ。死にたければ死ね、修行 したければ修行せよ、二つに一つだ。そんなふうに読むのは、いき過ぎかな。
2008/02/11(Mon)
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