週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

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第百三十八段 祭過ぎぬれば
 「祭過ぎぬれば、後(ノチ)の葵(アフヒ)不用(フヨウ)なり」とて、或人の、御
 簾(ミス)なるを皆取らせられ侍りしが、色(イロ)もなく覚え侍りしを、よき人の
 し給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍(スハウノナイシ)が、
 
 かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉(カレハ)なりけり
 
 と詠(ヨ)めるも、母屋(モヤ)の御簾(ミス)に葵の懸(カカ)りたる枯葉を詠め
 るよし、家(イヘ)の集(シフ)に書けり。古き歌の詞書(コトバガキ)に、「枯れ
 たる葵にさして遣(ツカ)はしける」とも侍り。枕草子にも、「来(コ)しかた恋
 (コヒ)しき物、枯れたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨
 長明が四季物語(シキノモノガタリ)にも、「玉垂(タマダレ)に後(ノチ)の葵は
 留(トマ)りけり」とぞ書ける。己(オノ)れと枯(カ)るゝだにこそあるを、名残
 (ナゴリ)なく、いかゞ取り捨つべき。
 
 御帳(ミチャウ)に懸(カカ)れる薬玉(クスダマ)も、九月九日(ナガツキココノ
 カ)、菊に取り替へらるゝといへば、菖蒲(シヤウブ)は菊の折(ヲリ)までもある
 べきにこそ。枇杷皇太后宮(ビハノクワウタイコウクウ)かくれ給ひて後(ノチ)、
 古き御帳の内(ウチ)に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「折ならぬ
 根をなほぞかけつる」と辨(ベン)の乳母(メノト)の言へる返事(カヘリコト)
 に、「あやめの草(クサ)はありながら」とも、江侍従(ゴウジジウ)が詠みしぞか
 し。
 
 ※
 「祭りが終われば、葵はもう必要ない」と、ある人が、御簾の飾りを取り払わせたの
 を、情緒がないなと感じたけれど、立派な人のなさった事だから、仕方がないかと思
 っていたら、周防内侍が、
 
 かけれどもかいなきものはもろともに御簾の葵の枯れ葉のようだ
 
 と詠んだのも、母屋の御簾に残った葵の枯れ葉を見て詠んだのだと、周防内侍集に書
 かれていた。昔の歌の解説に、「枯れた葵と一緒に送った。」ともある。枕草子に
 も、「切なくさせるものといえば、枯れた葵。」と書かれているのも、身近にあって
 目にとまったからだろう。鴨長明の四季物語にも、「綺麗なすだれに枯れた葵が残っ
 ている」と書いてある。自然と枯れるままでいいのに、惜しげもなく、なぜ捨ててし
 まうのだろう。
 
 寝室に吊るされた薬玉も、九月九日になってから、菊に取り換えられるのだから、菖
 蒲は菊の時期まで置いてある。枇杷皇太后宮が亡くなった後、寝室に、菖蒲や薬玉の
 古いのが残っているのを見つけて、「(あやめの葉を涙に換えて)季節外れだけれど
 このままにしておきます。」と乳母が詠んだ返歌に「(主は居なくなったのに)あや
 めの葉は残ったまま」と、江侍従が詠んだとか。
 
 ※
 「ご隠居はん、昔は葵の枯れ葉に意味を持たせていたようですが、兼好さんの時代に
 はもう廃れていたのでしょうね。」
 「どうだろうね。片付けさせた人が、葵の枯れ葉の意味を知ってやったとしたら?」
 「あぁそうか、後ろ向きだ、湿っぽいと思えば嫌いな人もいるか。」
 
 鴨長明:(〜1216)賀茂神社の禰宜(神職)の子で方丈記の著者だそうです。
     ということは、百年前の話か...。
 枇杷皇太后宮:藤原妍子(994-1027)三条天皇の中宮のこと。
     こちらは三百年前か。
2008/11/30(Sun)

第百三十七段 花は盛りに
 花は盛(サカ)りに、月は隈(クマ)なきをのみ、見るものかは。雨に対(ムカ)ひ
 て月を恋(コ)ひ、垂(タ)れこめて春の行衛(ユクヘ)知らぬも、なほ、あはれに
 情深し。咲きぬべきほどの梢(コズエ)、散り萎(シヲ)れたる庭などこそ、見所
 (ミドコロ)多けれ。歌の詞書(コトバガキ)にも、「花見(ハナミ)にまかれりけ
 るに、早く散り過ぎにければ」とも、「障(サハ)る事ありてまからで」なども書け
 るは、「花を見て」と言へるに劣(オト)れる事かは。花の散り、月の傾(カタブ)
 くを慕(シタ)ふ習(ナラ)ひはさる事なれど、殊(コト)にかたくななる人ぞ、
 「この枝、かの枝散りにけり。今は見所(ミドコロ)なし」などは言ふめる。
 
 万(ヨロヅ)の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女(ヲトコオンナ)の情(ナサ
 ケ)も、ひとへに逢(ア)ひ見るをば言ふものかは。逢はで止(ヤ)みにし憂さを思
 ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独(ヒト)り明し、遠き雲井(クモヰ)を思ひ
 やり、浅茅(アサヂ)が宿に昔を偲(シノ)ぶこそ、色好(イロコノ)むとは言は
 め。望月(モチヅキ)の隈なきを千里(チサト)の外(ホカ)まで眺(ナガ)めたる
 よりも、暁(アカツキ)近くなりて待ち出でたるが、いと心深(ブカ)う青みたるや
 うにて、深き山の杉の梢に見えたる、木(コ)の間(マ)の影、うちしぐれたる村雲
 隠(ムラグモガク)れのほど、またなくあはれなり。椎柴(シヒシバ)・白樫(シラ
 カシ)などの、濡(ヌ)れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁(シ)み
 て、心あらん友もがなと、都恋(ミヤココヒ)しう覚ゆれ。
 
 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は
 閨(ネヤ)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひと
 へに好(ス)けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(ナホザリ)なり。片田舎(カ
 タヰナカ)の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本(モト)には、ねぢより、立
 ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌(レンガ)して、果(ハテ)は、大
 きなる枝、心なく折り取りぬ。泉(イヅミ)には手足さし浸(ヒタ)して、雪には下
 (オ)り立ちて跡(アト)つけなど、万の物、よそながら見ることなし。
 
 さやうの人の祭見しさま、いと珍(メヅ)らかなりき。「見事(ミゴト)いと遅し。
 そのほどは桟敷(サジキ)不用(フヨウ)なり」とて、奥なる屋(ヤ)にて、酒飲
 み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ
 時に、おのおの肝潰(キモツブ)るゝやうに争(アラソ)ひ走り上りて、落ちぬべき
 まで簾(スダレ)張り出でて、押し合ひつゝ、一事(ヒトコト)も見洩(モラ)さじ
 とまぼりて、「とあり、かゝり」と物毎(モノゴト)に言ひて、渡り過ぎぬれば、
 「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。たゞ、物をのみ見んとするなるべし。都の人の
 ゆゝしげなるは、睡(ネブ)りて、いとも見ず。若く末々(スエズエ)なるは、宮仕
 (ヅカ)へに立ち居(ヰ)、人の後(ウシロ)に侍ふは、様(サマ)あしくも及び
 かゝらず、わりなく見んとする人もなし。
 
 何となく葵(アフヒ)懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する
 車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼(ウシカヒ)・下部
 (シモベ)などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行
 (ユ)き交(カ)ふ、見るもつれづれならず。暮るゝほどには、立て並(ナラ)べつ
 る車ども、所(トコロ)なく並(ナ)みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程
 (ホド)なく稀(マレ)に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾(スダ
 レ)・畳(タタミ)も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例(タメ
 シ)も思ひ知られて、あはれなれ。大路(オホチ)見たるこそ、祭見たるにてはあ
 れ。
 
 かの桟敷(サジキ)の前をこゝら行(ユ)き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、
 知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失(ウ)せなん後(ノチ)、
 我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待(マ)ちつけぬべし。大きなる器(ウ
 ツハモノ)に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴(シタダ)ること少(スクナ)
 しといふとも、怠(オコタ)る間なく洩(モ)りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中
 (ウチ)に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥
 部野(トリベノ)・舟岡(フナヲカ)、さらぬ野(ノ)山(ヤマ)にも、送る数多か
 る日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺(ヒツギ)を鬻(ヒサ)く者、作りてう
 ち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期(シゴ)な
 り。今日(ケフ)まで遁(ノガ)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫(シバ)
 しも世をのどかには思ひなんや。継子立(ママコダテ)といふものを双六(スグロ
 ク)の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、
 数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁(ノガ)れぬと見れど、またまた数ふれ
 ば、彼是間抜(カレコレマヌ)き行くほどに、いづれも遁(ノガ)れざるに似たり。
 兵(ツハモノ)の、軍(イクサ)に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、
 身をも忘る。世を背ける草の庵(イホリ)には、閑(シヅ)かに水石(スヰセキ)を
 翫(モテアソ)びて、これを余所(ヨソ)に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かな
 る山の奥、無常の敵競(カタキキホ)ひ来(キタ)らざらんや。その、死に臨(ノ
 ゾ)める事、軍(イクサ)の陣(ヂン)に進めるに同じ。
 
 ※
 花は盛りに、月は雲がないときにのみ見ごたえがあるわけではないよ。雨空に臨んで
 月を思い、家に閉じこもって春の移ろいを知らないというのも、十分情緒があってい
 いじゃない。今にも咲きそうな梢、散り萎れた庭なども見どころは多いよ。歌の前書
 きに「花見に行ったけれど既に散っていた。」とか、「時間が無くて見に行けなかっ
 た。」とか書いてあっても、「花を見て。」というのに劣ってはいないからね。花が
 散り月が欠けるのを惜しむ気持はわかるけれど、頑なな人になると、「この枝もあの
 枝も散ってしまった。もう見所は無い。」なんて言っている。
 
 どんな事だって始まりや終わりこそ大切なのにね。恋愛だって会えればいいってもの
 じゃない。会えない寂しさ、はかなく散った約束を嘆いてみたり、長い夜を独りで過
 ごし、遠くのあの人を思ったり、今は荒れ果てた思い出の場所で昔を思い出したりす
 るのが、恋するってことじゃないのかい。澄んだ満月を、遠くに眺めるよりも、明け
 方近くにやっと出た月が、心に沁みるような、青みがかった光を放ち、遠くの山の杉
 の梢辺りに見えたり、木の間にみえる姿、時雨どきの雲越しに見える様子、どれをと
 っても趣があるよ。椎や樫などの濡れたように艶のある葉にきらめいているのを見る
 と、身にしみて、心通わす友が居てくれたらと、都が恋しくなるのだよ。
 
 月や花は目で見えるものばかりではない。春は外出しなくても、月は閨の中からで
 も、しっかりと思い描くことができるのがいいのだよ。よき人なら、のめり込む様に
 も見えず、楽しむ様もほどほどだ。田舎者ほど、あれこれ何でも面白がる。花があれ
 ば、ねじりより近づき、脇目も振らず見つめては、酒を飲んで、歌って、そして大き
 な枝を心なく折ってしまう。泉を見れば手足を浸し、雪には足跡をつけ、とにかく、
 眺めるという事をしない。
 
 そんな人々の祭りを見る姿は、とっても珍妙。「なかなか来ないな。桟敷に居ても仕
 方がない。」と言って、奥の部屋で、酒を飲み物を食べ、囲碁すごろくなどで遊ん
 で、桟敷には見張りを置いておき、「来ましたよ。」と言われては、おのおの慌てて
 走りより、落ちそうになるほど、簾を引っ張っては、押し合いながら、見逃すものか
 と見詰め、ああだこうだと喋りまくって、通り過ぎれば、「次が来るまで。」と言っ
 ては下がっていく。その物のみを見ようとする。都のおもだった人々は、目を閉じて
 全然見もしない。若い下々の人々は、主人の世話に立ち振る舞い、人の後ろに控えて
 は、行儀悪く前の人に乗りかかって、無理に見ようとする人もない。
 
 何にでも葵を飾った優雅な雰囲気の中、夜明け前に、静かにやってくる車の上品さ
 に、あの方かなこの方かなと思ってみれば、牛飼や下部に見知った顔もある。優雅な
 もの、美しいもの、行き交う様子を見るだけで退屈しない。日暮れ近くになると、集
 まっていた車も、隙間なく立っていた見物人も、どこかへ行ってしまったのだろう、
 すぐに空いてきて、車の混雑も終わり、簾や畳も片づけられ、目の前が寂しくなって
 ゆく様が、人生のようにも見え哀れさを感じてしまう。大路の様子を見ることこそ
 が、祭りを見たということなのだろうね。
 
 あの桟敷の前を行き交う大勢の人に、顔見知りが数多くいることを知ると、世の中の
 人というのもそう多くはないのかも。この人々がいなくなった後、自分が死ぬ番だと
 しても、そんなに待つこともなさそうだ。大きな器に水を入れ、そこに小さな穴をあ
 けたとして、滴る量が少しであっても、とまることなく漏れ続ければ、やがて無くな
 ってしまう。都の中には大勢の人がいるから、死者が出ない日がある筈がない。一日
 に一人二人ではない。鳥部野、舟岡、他の墓地にも、送る数が多い日はあっても、送
 らない日は無い。だから棺を売る者は、作っても置いておく暇もない。若さも、強さ
 も、関係なく死はやってくる。今日まで逃れられたのは、幸運だと言ってもいい。わ
 ずかな時間でも世をのどかだとは思えない。継子立というものを碁石で作り、並べて
 みると、取られる石はどれだか分らない、数えて行って一つを取れば、他は助かった
 ように見えるけれど、またまた数え、一つ一つと間引いて行くほどに、どの石も逃れ
 られないというのに似ている。兵士が戦に行くと、死が近いことを知って、家のこと
 も忘れわが身をも忘れる。世から逃れた草庵で、静かに盆栽の手入れをしながら、死
 なんて関係ないと思うのは、なんともはかないことだ。静かな山奥といえども、無常
 の敵が来ないわけはない。その死を意識する気持は、敵陣に突き進むのと同じ事なの
 だ。
 
 ※
 「ご隠居はん、風流の話かと思えばいつの間にか死についての話になってます。」
 「これがメインテーマなのだから仕方ない。」
 「それにしても暗いなぁ。鬱なのかと思ってしまう。だいたい、世の中の人が皆死ん
 で、最後が自分だとして、なんて仮定をする時点で変過ぎる。」
 「それは死というものを意識していないからだよ。」
 「そうなんでしょうか。」
2008/09/14(Sun)

第百三十六段 医師篤成
 医師篤成(クスシアツシゲ)、故法皇(コホフワウ)の御前(ゴゼン)に候ひて、供
 御(グゴ)の参りけるに、「今参り侍る供御の色々を、文字(モンジ)も功能(クノ
 ウ)も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草(ホンザウ)に御覧(ゴラン)じ合は
 せられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六条故内府(ロクデウ
 ノコダイフ)参り給ひて、「有房(アリフサ)、ついでに物(モノ)習ひ侍らん」と
 て、「先づ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏(ヘン)にか侍らん」と問はれたり
 けるに、「土偏(ドヘン)に候ふ」と申したりければ、「才(ザエ)の程(ホド)、
 既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、ど
 よみに成りて、罷(マカ)り出でにけり。
 
 ※
 医師の篤成が、亡き法皇の御前に参上した際、食事が運ばれてきたので、「今運ばれ
 ました食事の材料について、名前や効能についてお尋ねくださりましたら、即座にお
 答え申し上げますので、本草と見比べてください。一つも間違いは致しません。」と
 申された時丁度、亡き六条内府が参上されて、「有房も、一緒に教わりましょう。」
 と言うなり、「まず、『しお』という文字は、何んと言う偏でしょうか。」と問われ
 たので、「土偏です」と答えたところ、「どの程度の知識かわかりました。今はここ
 までで結構です。これ以上聞くことはありません。」と申されたので、大笑いになっ
 て、出て行った。
 
 ※
 「ご隠居はん、前段と同じく自信家の鼻っ柱をへし折りました。」
 「ちょっと意地悪だけどね。」
 「塩、盬、鹽とあるのでどの字なのか聞かないと。」
 「少しの事で得意になるなという戒めかな。それにしても、本当にそんなことを問題
 にしたのかな。」
 
 故法皇:後宇多法皇(1267-1324)のこと。
 六条故内府:六条有房(1251-1319)のこと。
 この段は後二条天皇の時代(在位1301-1308)の話と思われるので、兼好は二十歳前
 後。
2008/08/30(Sat)

第百三十五段 資季大納言入道とかや聞えける人
 資季(スケスヱノ)大納言入道とかや聞(キコ)えける人、具氏宰相中将(トモウヂ
 サイシヤウチユウジヤウ)にあひて、「わぬしの問はれんほどのこと、何事(ナニゴ
 ト)なりとも答へ申さざらんや」と言はれければ、具氏、「いかゞ侍らん」と申され
 けるを、「さらば、あらがひ給へ」と言はれて、「はかばかしき事は、片端(カタハ
 シ)も学(マネ)び知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそゞろごとの中
 に、おぼつかなき事をこそ問ひ奉(タテマツ)らめ」と申されけり。「まして、こゝ
 もとの浅(アサ)き事は、何事なりとも明(アキ)らめ申さん」と言はれければ、近
 習(キンジユ)の人々、女房なども、「興(キヤウ)あるあらがひなり。同じくは、
 御前(ゴゼン)にて争はるべし。負けたらん人は、供御(グゴ)をまうけらるべし」
 と定めて、御前にて召し合はせられたりけるに、具氏、「幼(ヲサナ)くより聞き習
 ひ侍れど、その心知らぬこと侍り。『むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれ
 いり、くれんどう』と申す事は、如何(イカ)なる心にか侍らん。承(ウケタマハ)
 らん」と申されけるに、大納言入道、はたと詰(ツマ)りて、「これはそゞろごとな
 れば、言ふにも足(タ)らず」と言はれけるを、「本(モト)より深き道は知り侍ら
 ず。そゞろごとを尋ね奉(タテマツ)らんと定め申しつ」と申されければ、大納言入
 道、負(マケ)になりて、所課(シヨクワ)いかめしくせられたりけるとぞ。
 
 ※
 資季大納言入道と思われる人が、具氏宰相中将に会った時、「お主の知りたい程度の
 事なら、どんなことにでも答えてみせよう。」と言ったので、具氏は、「それはどう
 でしょうか」と申した、「ならば、申してみよ」と言われたので、「難しい事は、少
 しも知りませんので、お聞きすることもできません。どうでもよいような事の中で、
 よくわからないことをお聞きしたいものです。」と申し上げた。「それなら尚のこ
 と、そなたの些細な疑問に、何でも答えてみせよう。」と言われたので、近習の
 人々、女官たちなども、「面白い争いだわ。どうせなら、御前にて争われてはいかが
 ですか。負けた人は、食事をふるまうという事で。」と決まり、御前にて相対し、具
 氏は、「幼いころから聞き慣れたことに、その意味が分からないことがあります。
 『ムマノキツリヤウ、キツニノヲカ、ナカクボレイリ、クレンドウ』と申しますの
 は、どういう意味なのでしょう。お聞きしたい。」と申し上げたところ、大納言入
 道、答えに詰まって、「これはどうでもいい事なので、答えるまでもない」と言った
 のだが、「最初から難しいことは知りません。どうでもいいようなことをお訊ねする
 と決めた上で申しました。」と申したので、大納言入道、負けとなり、御馳走させら
 れたそうだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、いつの時代にも似た人は、いるようです。」
 「片や自信満々、片やちょっと意地悪。」
 「将軍様と一休さんみたいですねぇ。」
2008/08/23(Sat)

第百三十四段 高倉院の法華堂の三昧僧
 高倉(タカクラノ)院の法華(ホツケ)堂の三昧僧(ザンマイソウ)、なにがしの律
 師(リツシ)とかやいふもの、或時(アルトキ)、鏡を取りて、顔をつくづくと見
 て、我がかたちの見にくゝ、あさましき事余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心
 地しければ、その後(ノチ)、長く、鏡を恐れて、手にだに取らず、更に、人に交は
 る事なし。御堂(ミダウ)のつとめばかりにあひて、籠(コモ)り居たりと聞き侍り
 しこそ、ありがたく覚えしか。
 
 賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己れをば知らざるなり。我を知らずして、外
 (ホカ)を知るといふ理(コトワリ)あるべからず。されば、己れを知るを、物知れ
 る人といふべし。かたち醜(ミニク)けれども知らず。心の愚かなるをも知らず、芸
 の拙(ツタナ)きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、
 病の冒(ヲカ)すをも知らず、死の近き事をも知らず。行(オコナ)ふ道の至らざる
 をも知らず。身の上の非を知らねば、まして、外の譏(ソシ)りを知らず。但し、か
 たちは鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのな
 ければ、知らぬに似(ニ)たりとぞ言はまし。かたちを改め、齢(ヨハヒ)を若くせ
 よとにはあらず。拙きを知らば、何ぞ、やがて退(シリゾ)かざる。老いぬと知ら
 ば、何ぞ、閑(シヅ)かに居て、身を安くせざる。行ひおろかなりと知らば、何ぞ、
 茲(コレ)を思ふこと茲にあらざる。
 
 すべて、人に愛楽(アイゲウ)せられずして衆(シユ)に交(マジ)はるは恥(ハ
 ヂ)なり。かたち見にくゝ、心おくれにして出(イ)で仕へ、無智(ムチ)にして大
 才(タイサイ)に交はり、不堪(フカン)の芸をもちて堪能(カンノウ)の座に列
 (ツラナ)り、雪の頭(カシラ)を頂きて盛りなる人に並び、況(イハ)んや、及ば
 ざる事を望み、叶(カナ)はぬ事を憂(ウレ)へ、来(キタ)らざることを待ち、人
 に恐れ、人に媚(コ)ぶるは、人の与(アタ)ふる恥にあらず、貪(ムサボ)る心に
 引かれて、自(ミヅカ)ら身を恥かしむるなり。貪る事の止まざるは、命を終(ヲ)
 ふる大事(ダイジ)、今こゝに来れりと、確(タシ)かに知らざればなり。
 
 ※
 高倉院の法華堂に居る三昧僧で、なんとか律師とかいう者が、ある時、鏡を取り出
 し、顔をよく見て、自分の顔が醜く、惨めな事に嘆き、鏡を見るのも嫌になり、その
 後、長らく、鏡を恐れ、手に取ることもなく、さらに、人との交流も絶ってしまっ
 た。御堂でのお勤めに励み、籠りっきりだと聞き、立派なことだと感じたものだ。
 
 賢そうな人でも、人の事ばかり気にして、自分のことを知らない。自分を知らないの
 に、他人を知るというのでは理屈が立たない。だから、自分を知る人を、ものを知っ
 た人という。姿が醜い事を知らず。心の愚かさも知らず。学芸の拙さも知らず、身の
 程も知らず、年老いたことも知らず、病に蝕まれていることも知らず、死の近い事も
 知らず。行いの至らなさも知らず。自分の欠点を知らず、ましてや、他人の誹りを知
 るはずがない。でも、姿は鏡で見て、年は数えることで知ることができる。自分の事
 を知らないわけではなく、どうすれば良いのかわからないのでは、知らないのと同じ
 だと言える。姿を変えたり、若返ろというのではない。拙いことを知れば、どうし
 て、止めないのか。老いることを知れば、どうして、のんびり暮し、体を大切にしな
 いのか。行いが愚かだと知れば、どうして、色々と思い考えることをしないのか。
 
 どんな時にでも、人に好かれてもいないのに大勢と交わるのは恥だよね。姿が醜いの
 に、ひるむこともなく出しゃばって、教養もないのに教養人と交わり、未熟な技能で
 堪能な人々と並び立ち、雪のような頭で若者に混ざり、ましてや、敵わぬことを望
 み、叶わないことを憂い、来ないものを待ち望み、人を恐れ、人に媚びるのは、人か
 ら受ける恥ではなく、貪る心のままに、自分で辱めているのだよ。貪る事が止められ
 ないのは、命の終りが、すぐそこに来ていると、しっかりと理解していないからだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、兼好さんにこんなに説教されるとは思いませんでしたよ。」
 「まぁこの通りなんだけれどね。」
 「そうですか?ちょっと言い過ぎのような。」
 「顔の所なら私には関係ないからね。ふっふっふっ。」
 
 高倉院の法華堂:京都の清閑寺。
 律師:僧正、僧都の次の位。
2008/08/16(Sat)

第百三十三段 夜の御殿は
 夜の御殿(オトド)は、東御枕(ミマクラ)なり。大方(オホカタ)、東を枕として
 陽気(ヤウキ)を受くべき故に、孔子も東首(トウシユ)し給へり。寝殿(シンデ
 ン)のしつらひ、或(アルヒ)は南枕、常(ツネ)の事なり。白河院(シラカハノ)
 は、北首(ホクシユ)に御寝(ギヨシン)なりけり。「北は忌(イ)む事なり。ま
 た、伊勢(イセ)は南なり。太神宮(ダイジングウ)の御方(オンカタ)を御跡(オ
 ンアト)にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拝(エウハ
 イ)は、巽(タウミ)に向はせ給ふ。南にはあらず。
 
 ※
 天皇の寝所は、東枕だ。大抵は、東枕なら朝日を受けることができるという理由で、
 孔子も東に頭を向けていたそうだ。寝殿の造りとしては、この他南枕もあり、ほぼこ
 の二方向としている。白河院は、北に頭を向けおやすみになっていた。「北は避ける
 べきです。ましてや、伊勢が南にはあります。大神宮に足を向けられるのはいかがか
 と」と、言う者があった。だけれど、大神宮の遥拝は、南東に向かって行われる。南
 ではない。
 
 ※
 「ご隠居はん、迷信だという事ですね。」
 「好きなほう向いて寝たらいいよ。」
 
 遥拝:遠く離れた場所を拝むこと。御所では伊勢神宮を拝む習慣があったのでしょ
    う。京都から伊勢は南東です。
2008/08/09(Sat)

第百三十二段 鳥羽の作道は
 鳥羽(トバ)の作道(ツクリミチ)は、鳥羽殿建てられて後の号(ナ)にはあらず。
 昔よりの名なり。元良親王(モトヨシノシンノウ)、元日(グワンニチ)の奏賀(ソ
 ウガ)の声、甚だ殊勝(シユシヨウ)にして、大極殿(ダイコクデン)より鳥羽の作
 道まで聞えけるよし、李部(リホウ)王(ワウ)の記に侍るとかや。
 
 ※
 鳥羽作道は、鳥羽殿が建てられた後の呼び名ではない。昔からの名前なのだ。元良親
 王の、新年の祝辞を述べる声が、非常に明瞭で、大極殿から鳥羽作道まで聞こえたと
 いう事が、李部王の日記に載っているそうだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、あの声の大きいお方はどなたですか。」
 「あれは元良親王だよ。」
 「鳥羽作道に居ても聞こえるほどでしたよ。」
 「はははっ。そんなに大きかったか。『面白いから日記に書いておこう。』」
 
 「ご隠居はん、鳥羽作道は羅城門から南へ延びる道だそうです。そうすると大極殿か
 ら5kmほどの距離があります。本当に聞こえたんでしょうか。」
 「いや、そんなつっこみは...。それほど大きかったという表現だから。て言うか聞
 こえたって言ったのは君だろ。」
 
 
 鳥羽の作道:現在では跡すらない道。
 鳥羽殿  :白河上皇が1086年に建立。
 元良親王 :(890-943)陽成天皇(869-949)の第一皇子。天皇が17歳で退位した
       後に生まれる。歌人。百人一首にも入ってますね。
 李部王の記:醍醐天皇の第四皇子重明親王(906-954)の日記。
       李部とは式部の唐名。920年頃以降について書かれているそうで、
       元良親王30歳以降のエピソードと考えられるが、李部王の記が現存し
       ていないため、真相は不明。
 詳しくはWikiで
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E4%BD%9C%E9%81%93
 
 元良親王の歌
 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思う
 
 不倫でお騒がせのあの方からは、こんな切なさは微塵も感じられませんなぁ。
2008/08/02(Sat)

第百三十一段 貧しき物は
 貧しき物は、財(タカラ)をもッて礼とし、老いたる者は、力をもッて礼とす。己
 (オノ)が分(ブン)を知りて、及ばざる時は速(スミヤ)かに止(ヤ)むを、智と
 いふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強(シ)ひて励むは、己れ
 が誤りなり。
 
 貧しくして分を知らざれば盗(ヌス)み、力衰へて分を知らざれば病(ヤマヒ)を受
 く。
 
 ※
 貧しき者は、金品によって感謝を示し、老いた者は、労力によって感謝を示す。身の
 程を知って、無理だと思えば速やかに止めることを、わきまえという。それを許さな
 いのは、その人の過ちだ。身の程を知らずに無理して頑張るのは、自分の過ちだ。
 
 貧しくて身の程を知らなければ盗みを働き、体力が衰えたのに無理をすれば病気にな
 る。
 
 ※
 「ご隠居はん、自分にとって大切なものでこそ感謝を示すことができるが、無理をす
 るなですか。これでいいのでしょうか。」
 「礼記と違うのはなぜなんだろうね。」
 「気持ちだけでよいという事かな。」
 
 礼記では...
 貧者は貨財を以て礼となさず、老者は筋力を以て礼となさず。
2008/07/26(Sat)

第百三十段 物に争はず
 物に争はず、己れを枉(マ)げて人に従ひ、我が身を後(ノチ)にして、人を先にす
 るには及(シ)かず。
 
 万(ヨロヅ)の遊びにも、勝負(カチマケ)を好む人は、勝ちて興(キョウ)あらん
 ためなり。己れが芸のまさりたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覚(オボ)ゆべき
 事、また知られたり。我負けて人を喜ばしめんと思はば、更(サラ)に遊びの興なか
 るべし。人(ホイ)に本意なく思はせて我が心を慰めん事、徳に背(ソム)けり。睦
 (ムツマ)しき中に戯(タハブ)るゝも、人に計(ハカ)り欺(アザム)きて、己れ
 が智(チ)のまさりたる事を興とす。これまた、礼にあらず。されば、始め興宴(キ
 ヨウエン)より起りて、長き恨みを結ぶ類(タグイ)多し。これみな、争ひを好む失
 (シツ)なり。
 
 人にまさらん事を思はば、たゞ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶ
 とならば、善に伐(ホコ)らず、輩(トモガラ)に争ふべからずといふ事を知るべき
 故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、たゞ、学問の力なり。
 
 ※
 物事を争わないようにするには、己を枉げて人に従い、自分の事より、他人の事を優
 先することだ。
 
 色々な遊びの中でも、勝ち負けを好む人は、勝つと気分がいいからそれをするのだ
 よ。自分の腕前が優れていることを喜んでいるのだ。だから、負けては楽しくないと
 いう事も、当然分っていることだよね。自分が負けて他人を喜ばそうと思えば、更に
 遊びが盛り上がらなくなる。他人を嫌な気分にさせておいて自分の気がすんでもそれ
 は、徳に反する。仲の良い間柄でふざけるのも、他人をいつわりだまし、自分の方が
 頭が良いと喜ぶものだ。これも、礼に反する。だから、始まりはもてなしのはずが、
 後々まで恨みの原因になることが多い。これらはみな、争いを好む人の欠点によるの
 だよ。
 
 人より優れていたいと思うなら、ただただ勉学に励み、教養において他人より優れて
 いたいと思うべき。道を学ぶとは、善であることに得意にならず、同輩と争わないと
 いう事を知ることだろうね。地位を離れ、実利も捨てることができるのは、ただただ
 教養のなせる技なのだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、心の豊かさが大切です。」
 「そう、当時の学問とは心の豊かさを目指しているよね。それに比べて現代の学問
 は、自己の利を最大化することに繋がっている。もっと心の豊かさを、そう、自分の
 事より、他人の事を優先するような人が高い地位につけば、世の中を騒がせるような
 出来事も少なくなるだろうね。」
 「ご隠居はん、いつになく語りましたね。」
2008/07/19(Sat)

第百二十九段 顔回は
 顔回(グワンカイ)は、志(ココロザシ)、人に労(ラウ)を施(ホドコ)さじとな
 り。すべて、人を苦しめ、物を虐ぐ(シヘタ)る事、賤しき民の志をも奪ふべから
 ず。また、いときなき子を賺(スカ)し、威(オド)し、言ひ恥(ハヅ)かしめて、
 興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心に
 は、身に沁(シ)みて、恐ろしく、恥かしく、あさましき思ひ、まことに切(セツ)
 なるべし。これを悩まして興ずる事、慈悲(ジヒ)の心にあらず。おとなしき人の、
 喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄(コマウ)なれども、誰(タレ)か実有(ジ
 ツウ)の相(サウ)に著(ヂヤク)せざる。
 
 身をやぶるよりも、心を傷(イタ)ましむるは、人を害(ソコナ)ふ事なほ甚(ハナ
 ハ)だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少し。薬を飲みて汗
 を求むるには、験(シルシ)なきことあれども、一旦恥ぢ、恐るゝことあれば、必ず
 汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲(リヤウウン)の額(ガ
 ク)を書きて白頭(ハクトウ)の人と成りし例(タメシ)、なきにあらず。
 
 ※
 顔回は、志として、人に苦労させないこととしていた。人を苦しめたり、いじめたり
 して、貧しき民の志を奪ってはならない。また、幼い子供をだまし、威し、小馬鹿に
 して、面白がることがある。大人にとっては、事実でなければ、気にすることもない
 けれど、子どもの心には、身にしみて、恐ろしく、恥かしく、みじめで、胸が締め付
 けられる思いになるのだよ。子供を悩まし面白がるなんて、慈悲の心があろうはずが
 ない。大人の、喜び、怒り、悲しみ、楽しみは、みな虚妄であるのに、本当のことの
 ように執着しているにすぎない。
 
 体を傷つけるよりも、心を傷つけることのほうが、人へのダメージは大きい。病気に
 なる時も、多くは心からだ。外からの病気は少ない。薬を飲んで汗を流そうとして
 も、効果がないことがあるけれど、ひとたび恥じたり、恐れることがあれば、必ず汗
 を流すのは、心が原因だという例だ。凌雲の額を書いて白髪となった例も、あるから
 ね。
 
 ※
 「ご隠居はん、PTSDです。」
 「君が?」
 「なんで僕なんですか。この段の話ですよ。」
 「あ〜びっくりした。トラウマになるような出来事でもあったのかと。」
 「無常と思えばそうそうそんな事はありませんよ。」
 「そうかなぁ。」
 
 
 顔回:孔子の弟子。
 凌雲の額:楼閣の上のほうに掲げられた額。あまりに高所であったため、書家が恐怖
      のあまり白髪になってしまったという。下で書いてから掲げればいいのに
      ね。誰も突っ込まなかったのかな。
2008/07/12(Sat)

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