第百八十五段 城陸奥守泰盛は |
城陸奥守泰盛(ジヤウノムツノカミヤスモリ)は、双(サウ)なき馬乗りなりけり。馬 を引き出(イダ)させけるに、足を揃(ソロ)へて閾(シキミ)をゆらりと越(コ)ゆ るを見ては、「これは勇(イサ)める馬なり」とて、鞍(クラ)を置き換(カ)へさせ けり。また、足を伸(ノ)べて閾に蹴当(ケア)てぬれば、「これは鈍(ニブ)くし て、過(アヤマ)ちあるべし」とて、乗らざりけり。 道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。 ※ 城陸奥守泰盛は、並ぶ者なき乗馬の名手だ。馬を引き出させた時、足を揃えて敷居を ひょいと越えるのを見て、「これは威勢のよすぎる馬だな」といって、鞍を他の馬に換 えさせた。また、足を伸ばして敷居に蹴当てるのを見ては、「これは鈍くて、扱いにく い」といって、乗らなかった。 道を知らない人は、些細なことを恐れないものだ。 ※ 「ご隠居はん、この名人は、筆を選ばず、ではないんですね。」 「いつものように隠された意味が有るのかもしれないね。」 「そういうことなら、馬を人に置き換えてみると見えてきそうですね。」 「それはいいかもしれないね。」 「切られる側の痛みも知らなければってことでしょうか。でも50代まで順調な気もする ので、最後の一行をどう読むか、迷いますね。」 城陸奥守泰盛:安達泰盛(1231-1285)第百八十四段の城介義景の息子。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B3%B0%E7%9B%9B 2010/01/02(Sat)
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第百八十段 さぎちやうは |
さぎちやうは、正月(ムツキ)に打ちたる毬杖(ギチヤウ)を、真言(シンゴン)院よ り神泉苑(シンゼンヱン)へ出(イダ)して、焼き上(ア)ぐるなり。「法成就(ホフ ジヤウジユ)の池にこそ」と囃(ハヤ)すは、神泉苑の池をいふなり。 ※ 左義長とは、正月に使った毬杖を、真言院から神泉苑へ運び出し、焼き上げる事を言 う。「法成就の池にこそ」という歌詞は、神泉苑の池を指している。 ※ 「ご隠居はん、元はゲートボールのようなもので、後に羽子板になったようです。」 「あぁなるほど、正月飾りを焼く風習は今でもあるからね、それの事なのかもね。」 「でも歌の方は伝わっていないようですね。」 真言院;内裏にある道場。毎年正月に国家安泰・玉体安穏・万民豊楽を祈る。 法成就:弘法大師が神泉苑で雨乞いを成功させた事をいう。 Wiki『羽根突き』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%A0%B9%E7%AA%81%E3%81%8D 2009/11/28(Sat)
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第百七十九段 入宋の沙門 |
入宋(ニツソウ)の沙門(シヤモン)、道眼(ダウゲン)上人、一切経(イツサイキヤ ウ)を持来(ヂライ)して、六波羅(ロクハラ)のあたり、やけ野といふ所に安置(ア ンヂ)して、殊(コト)に首楞厳経(シユレウゴンキヤウ)を講(カウ)じて、那蘭陀 寺(ナランダジ)と号(カウ)す。 その聖の申されしは、那蘭陀寺は、大門(ダイモン)北向きなりと、江帥(ガウゾツ) の説として言ひ伝えたれど、西域伝(サイヰキデン)・法顕伝(ホツケンデン)などに も見えず、更(サラ)に所見(シヨケン)なし。江帥は如何なる才学(サイガク)にて か申されけん、おぼつかなし。唐土(タウド)の西明寺(サイミヤウジ)は、北向き勿 論(モチロン)なり」と申しき。 ※ 中国への留学僧、道眼上人が、一切経を持ち帰り、六波羅の辺り、やけ野という所に安 置して、中でも首楞厳経を講義して、那蘭陀寺と名乗った。 その上人が申されるには、那蘭陀寺は、大門が北向きであると、江帥の説が言い伝えら れるが、大唐西域伝・仏国記などには見られず、他にも見当たらない。江帥はどのよう な学識から言ったのだろうか、はっきりしない。中国の西明寺は、むろん北向きであ る。」と申された。 ※ 「ご隠居はん、これは意味がさっぱり分かりません。」 「那蘭陀寺は北門ではない。西明寺は北門。」 「西明寺の話が唐突すぎますよ。それに勿論って言われましても。」 「まぁいいじゃない。そういうことで。」 江帥:大江匡房(1041-1111)のこと。 大唐西域伝:ご存知三蔵法師の旅行記。 仏国記:法顕の旅行記。 本家インドの那蘭陀寺(ナーランダ)はこちらで http://en.wikipedia.org/wiki/Nalanda 確かに北向きの門は...無いようだ... 祇園精舎をモデルとした中国の西明寺については確認できなかったけれど、その西明寺 をモデルにした奈良の大安寺は南門だったようです。どちらのお寺も遺跡なので門は現 存しません。 2009/11/21(Sat)
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