週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

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第百十八段 鯉の羹食ひたる日は
 鯉(コヒ)の羹(アツモノ)食ひたる日は、鬢(ビン)そゝけずとなん。膠(ニカ
 ハ)にも作るものなれば、粘りたるものにこそ。
 
 鯉ばかりこそ、御前(ゴゼン)にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚(ウヲ)
 なり。鳥には雉(キジ)、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿(ミユドノ)
 の上に懸(カカ)りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮の御方(オン
 カタ)の御湯殿の上の黒み棚(ダナ)に雁(カリ)の見えつるを、北山(キタヤマ
 ノ)入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて、御文(オンフミ)にて、「かやうの
 もの、さながら、その姿にて御棚(ミタナ)にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき
 事なり。はかばかしき人のさふらはぬ故にこそ」など申されたりけり。
 
 ※
 鯉の熱い吸い物を食べた翌日は、髪の毛が乱れない。ニカワの材料になるぐらい、粘
 り気があるからだろう。
 
 鯉だけは、天皇の御前でさばくことが許されるほど、実に高貴な魚なのだ。鳥だと雉
 が、並ぶものがない。雉、松茸などは、御湯殿の上に吊り下げられていても見苦しく
 ない。その他は、いい気がしないものだ。中宮のお湯殿の上の黒み棚に雁が置いてあ
 ったのを、北山入道殿がご覧になると、帰ってしまわれ、やがて、手紙で「あんなも
 のを、そっくりそのまま、元の姿で棚の上に放っておくなんて、見っともなくて、呆
 れてしまった。しっかりした人が身の回りに居ないからだろう。」と注意されたそう
 だ。
 
 ※
 「ご隠居はん、マナーの話ですけれど、鯉や雉がこういう扱いだとは知りませんでし
 た。」
 「なぜだと思う。」
 「えっ、そうですねぇ。鯉は口髭があって、滝登りの姿が龍にみえるからとか。雉は
 一夫多妻だそうで、それが天皇のような存在だからとか。」
 「うむう、一番の理由は、美味しいから。まぁそれは冗談として、いいところ突いて
 いるかもね。寵愛まで側室へ移ってしまわない様、気を引き締めろという親心か
 な。」
 
 御湯殿 :清涼殿にある湯沸し場のこと。
 中宮  :西園寺禧子(1303-1333)のことらしい。
      中宮とは皇后のことではあるが、正室というぐらいの意味に考えたほうが
      いいかも。     
      10歳の時、尊治親王(後の後醍醐天皇(当時25歳))の略奪婚にあ
      う。尊治親王には、この時点で妻と子が数名いたわけで、まさに雉のよ
      う。天皇に即位する5年後中宮となったので、実兼が亡くなる更に4年後
      までの間で起こった話となる。その時点で、後に後醍醐天皇の寵妃となる
      阿野廉子(1301-1359)が上臈女房として中宮の身の回りに居たわけで。
 北山入道:西園寺実兼(1249-1322)のことだそうです。
      息子に関東申次を譲った時(1291)にでも出家したのか?
2008/04/27(Sun)

第百十七段 友とするに悪き者
 友とするに悪(ワロ)き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つに
 は、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけ
 く、勇(イサ)める兵(ツハモノ)。六つには、虚言(ソラゴト)する人。七つに
 は、欲深き人。
 
 よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師(クスシ)。三つには、智
 恵ある友。
 
 ※
 友とするのに向かない人には、七つある。一つには、身分が高く、畏れ多い人。二つ
 目は、若い人。三つ目は、病気知らずの、強健な人。四つ目、酒を好む人。五つ目
 は、荒っぽく、血の気の多い人。六つ目は、嘘を言う人。七つ目は、欲の深い人。
 
 よき友には、三つある。一つ目は、物をくれる友。二つ目には医者。三つ目は、知恵
 のある友。
 
 ※
 「ご隠居はん、若い人とは友ではなく、ご隠居はんと私のように子弟というほうがい
 いでしょうね。」
 「若い人が友だと、つい無理するからねぇ。」
 「酒を好む人って、飲めない人に無理に飲ませますからね。あれさえなければ。」
 「何度も言うようだけれど、いつの時代も同じだね。」
2008/04/19(Sat)

第百十六段 寺院の号
 寺院の号(ガウ)、さらぬ万(ヨロヅ)の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも
 求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。この比(コロ)は、深く案じ、
 才覚(サイカク)をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目
 慣れぬ文字を付かんとする、益(エキ)なき事なり。
 
 何事も、珍しき事を求め、異説(イセツ)を好むは、浅才(センザイ)の人の必ずあ
 る事なりとぞ。
 
 ※
 寺院の号、他の全ての物についても、名前をつける時、昔の人は、何を期待したわけ
 でもなく、ありのまま、簡単に付けたものだ。最近では、あれこれと考えを巡らし、
 知識をひけらかしているように見えて、嫌味なもんだ。人の名前にも、見慣れぬ文字
 を使おうとしているようだけど、いいことなんか何んにもないのだけれどね。
 
 何事につけ、珍しさ、風変わりを好むのは、浅はかな人間のよくすることだ。
 
 ※
 「ご隠居はん。もうなにも言いません。これ見てください。」
 
 「ヘンな名前の子供」急増はいかがなものか?
 http://jp.youtube.com/watch?v=HWc-vMnolII
 
 最近の親は子供にこんなDQNネームを名づけます3(自重.ver)
 http://jp.youtube.com/watch?v=17M9WsJrqOc&NR=1
 
 赤ちゃんに一風変わった名前が流行、専門コンサルタントも登場
 http://www.excite.co.jp/News/odd/00081206258046.html
2008/04/12(Sat)

第百十五段 宿河原といふ所にて
 宿河原(シュクガハラ)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品(クホン)の念
 仏を申しけるに、外(ホカ)より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中(オンナ
 カ)に、いろをし房(バウ)と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、
 「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰(タ)そ」と答ふれば、「しら梵字
 (ボンジ)と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国(トウゴク)にて、
 いろをしと申すぼろに殺されけりと承(ウケタマハ)りしかば、その人に逢ひ奉(タ
 テマツ)りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝし
 くも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場(ダウヂヤウ)を
 汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方(カタ)
 をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事(ブツジ)の妨(サマタ)げに
 侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫(ツラヌ)き
 合ひて、共に死ににけり。
 
 ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云
 ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執(ガシフ)深く、仏道
 を願ふに似て闘諍(トウジヤウ)を事(コト)とす。放逸(ハウイツ)・無慙(ムザ
 ン)の有様なれども、死を軽(カロ)くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚
 えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり。
 
 ※
 宿河原という所に、ボロボロが多く集まって、九品の念仏を唱えていたのだが、他か
 らやって来たボロボロが「お訊ねするが、この中に、いろをし房とかいうボロは居る
 かな。」と訊ねてみると、その中から「いろをしは、ここに居るぞ。そういうお前は
 誰だ。」と答えれば、「しら梵字と申す。私の師の、何々というお方が、東国にて、
 いろをしとかいうボロに殺されたと聞いたので、その人に会って、敵を討とうと思っ
 て、やって来たのだ。」と言う。いろをしは「よくぞここまで尋ねてきた。そういえ
 ばそういう事もあったな。ここで相対すれば、道場を汚してしまう。表の河原へ参り
 ましょう。間違っても、みなさんよ、どちらにも加勢はせぬように。後の煩いにな
 り、修行の妨げになりますぞ。」と申し合わせて、二人は、河原へ出て行き、思う存
 分闘った末、共に死んでしまった。
 
 ボロボロといわれる者は、昔は居なかった。最近になって現れた、ボロンジ、梵字、
 漢字などと名乗る者が、その始まりということだ。世を捨てることに似て我執が深
 く、仏の道を志すに似て闘争を巻き起こす。勝手気ままの恥知らずに見えるけれど、
 死を恐れず、少しも生に執着しないその潔さに感動して、人が話したまま書き留めて
 おいた。
 
 ※
 「ご隠居はん、出家はある意味わがまま勝手、信仰を貫くのはある意味戦い。そう言
 われれば、そうなんでしょうね。」
 「まぁ皮肉ではあるけれど、目指すものの正反対に似ているか。」
 「あ〜シーシ○パードとかグリ○ピースとかもそういうことなのかな。」
 「おいおい...」
 
 九品の念仏:九品というのは上中下、上中下を組み合わせた9段階の事で、阿弥陀仏
       像や仏像の台座である蓮台にはその区別があるそうです。でも念仏にも
       九つの段階があるのでしょうか。
2008/04/05(Sat)

第百十四段 今出川の大殿
 今出川(イマデガハ)の大殿(オホイトノ)、嵯峨(サガ)へおはしけるに、有栖川
 (アリスガハ)のわたりに、水の流れたる所にて、賽王丸(サイワウマル)、御牛
 (オンウシ)を追ひたりければ、あがきの水、前板(マヘイタ)までさゝとかゝりけ
 るを、為則(タメノリ)、御車(ミクルマ)のしりに候ひけるが、「希有(ケウ)の
 童(ワラハ)かな。かゝる所にて御牛(オンウシ)をば追ふものか」と言ひたりけれ
 ば、大殿、御気色(ミケシキ)悪(ア)しくなりて、「おのれ、車やらん事、賽王丸
 にまさりてえ知らじ。希有の男なり」とて、御車に頭(カシラ)を打ち当てられにけ
 り。この高名(カウミヤウ)の賽王丸は、太秦殿(ウヅマサドノ)の男、料(レウ)
 の御牛飼(オンウシカヒ)ぞかし。
 
 この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふ
 ばら、一人はおとうしと付けられけり。
 
 ※
 今出川の大臣が、嵯峨へ向かわれたとき、有栖川の辺りの、水の流れている所で、賽
 王丸が、牛を追い立てたため、跳ね上げられた水が、御車の前板へばさばさとかかっ
 た。為則が、御車の後ろの席に座っていたのだが、「なんという御者だ。こんな場所
 で牛を追いたててどうする。」と言ったので、大臣、機嫌が悪くなって、「お前、車
 の運転について、賽王丸以上の者は居らんのだぞ。この馬鹿者。」と言って、御車に
 頭を打ち付けられた。この有名な賽王丸は、太秦殿の家来で、天皇家の牛飼なのだ。
 
 この太秦殿に仕える侍女たちは、膝幸(ひざさち)、こと槌(ことづち)、胞腹(ほ
 うばら)、乙牛(おとうし)と名付けられているそうだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、何も車に頭を打ち付けなくてもいいと思うのですが...。」
 「気性が荒い貴族だね。あるいは賽王丸に気を遣ったのかもしれないよ。」
 「大臣が気を遣うのですか。これには裏の力関係でもあるのでしょうか。」
 
 今出川の大殿:菊亭兼季(右大臣在職1322-1323年)、西園寺実兼の子。
 参考:第八十三段 竹林院入道左大臣殿
 http://bbs.mail-box.ne.jp/ture/index.php?page=9#84
 
 この今出川の大殿については、西園寺公相(1223-1267)だとする説もあるようです
 が、時代が違い過ぎるような気がします。ただ、その父実氏(1194-1269)は第九十
 四段で登場するわけで、百年前の話を書いたネタ本があれば可能かもしれない。祖父
 公経(1171-1244)と合わせれば賽王丸が仕えた西園寺家三代というのとは合うし、
 実兼(1249-1322)、公相(1223-1267)と兼季が大臣だった1322年だと少なくとも6
 0歳を超えていないと無理なんだなぁ。
 
 賽王丸:西園寺家に三代に渡って仕えているらしい牛飼。
 太秦殿:藤原信清(1159-1216)に縁のある者としかわからない。
2008/03/30(Sun)

第百十三段 四十にも余りぬる人の
 四十(ヨソヂ)にも余りぬる人の、色めきたる方(カタ)、おのづから忍びてあらん
 は、いかゞはせん、言(コト)に打ち出でて、男・女の事、人の上(ウヘ)をも言ひ
 戯(タハブ)るゝこそ、にげなく、見苦しけれ。
 
 大方、聞きにくゝ、見苦しき事、老人(オイビト)の、若き人に交りて、興(キヤ
 ウ)あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひ
 たる。貧しき所に、酒宴好み、客人(マラウト)に饗応(アルジ)せんときらめきた
 る。
 
 ※
 四十を超えた人の、色恋のことだけど、隠れてやっているのは、まぁ仕方がないとし
 て、口に出して、情事のこと、他人の身の上のことを話題にするなんて、いい年し
 て、みっともない。
 
 大体、聞きたくもないし、見苦しいものと言えば、おっさんが、若者に混ざって、う
 けようと喋っていること。大した身分でもないのに、有名人のことを馴れ馴れしく話
 すこと。貧しいのに、酒宴を好んで、客人をもてなしては調子に乗ること。
 
 ※
 「ご隠居はん、年相応ってことですね。」
 「そう、若者がへまをやれば、若気の至りで済むけど、年寄りが同じへまをやらかし
 たら唯のアホだからね。」
 「ニュースを見ていても、七十にもなってとか五十にもなってそんなことするなよっ
 て事件が多いです。」
 「年相応の分別のない人が増えたんだね。みんながそうなったら世の中終わりだ
 よ。」
 「え...私も四十ですので気をつけます。」
 「え...私も五十を超えてますので気をつけます。」
2008/03/22(Sat)

第百十二段 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に
 明日は遠き国へ赴(オモム)くべしと聞かん人に、心閑(シヅ)かになすべからんわ
 ざをば、人言ひかけてんや。俄(ニハ)かの大事をも営み、切(セツ)に歎(ナゲ)
 く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁(ウレ)へ・喜びをも問はず。問はず
 とて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやう闌(タ)け、病にもまつは
 れ、況(イハ)んや世をも遁(ノガ)れたらん人、また、これに同じかるべし。
 
 人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗(セゾク)の黙(モク)し難きに随ひ
 て、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(イトマ)もなく、一生
 は、雑事(ザフジ)の小節(セウセツ)にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗
 (ミチ)遠し。吾が生既に蹉蛇(サダ)たり。諸縁(シヨエン)を放下(ハウゲ)す
 べき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも
 言へ、うつつなし、情(ナサケ)なしとも思へ。毀(ソシ)るとも苦しまじ。誉むと
 も聞き入れじ。
 
 ※
 明日には遠くへ旅立ってしまうだろうと思われる人に、落ち着いて解決しなければな
 らないような物事を、誰が頼むだろうか。急な出来事に見舞われた人や、心から悲し
 んでいるような人は、他の事に気が回らない、だから他人の愁いや喜びに関心がな
 い。関心がないからと言って、なぜだと恨み言を言うような人もいない。ならば、人
 生の盛りを過ぎ、病を患い、ましてや世を捨てた人をも、また、これらと同じように
 扱ってもいいじゃないか。
 
 人間の儀式なんて、どれが欠けても問題ない。世の中のばかばかしさに付き合って、
 仕方がないことだとすれば、煩わしく、疲れ果て、心の休まる暇もなく、一生は、続
 出する雑事に追われて、空しく過ぎてしまう。日が暮れてきたが、道は遠い。我が人
 生これまで寄り道ばかりしていた。諸縁を捨てるべき時が来た。約束も守らない。礼
 儀も考えない。この思いを理解できない人よ、狂ったのか、正気をなくしたのか、情
 けないなと思わば思え。何と言われても気にしない。誉め言葉でさえ聞こえないよ。
 
 ※
 「ご隠居はん、”人間の儀式”って、人間以外にも儀式があるんですか。」
 「そこかい!そんなところに突っ込み入れずに、この悲壮な決意のようなものを感じ
 ないのかい。」
 「うむ...どうしても変態じみた部分がぬぐい去れないので、真剣な話をされて
 も。」
 「変態だとしても、いや、そのことは置いといて、どこかで立ち止まって考える時っ
 てあると思うのだけれどね。」
2008/03/16(Sun)

第百十一段 囲碁・双六好みて明かし暮らす人は
 「囲碁(ヰゴ)・双六(スグロク)好みて明かし暮らす人は、四重(シヂユウ)・五逆(ゴ
 ギヤク)にもまされる悪事とぞ思ふ」と、或ひじりの申しし事、耳に止 (トド)まり
 て、いみじく覚え侍り。 
 
 ※
 「囲碁、双六三昧というのは、四重・五逆に等しい悪事だと思う」と、ある聖の言っ
 たことばが、耳に残ったので、覚えておいたのだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、今で言えば、パチンコに気をとられて子供を死なせたり、ギャンブル
 が元の借金で家庭を壊したりですか。」
 「そうだね。どのような道も極めようとすれば、夢中にならなくてはならない。た
 だ、夢中になってはいけないものもあるよと言う事でいいのではないかな。」
 
 四重:生き物を殺すこと、盗むこと、姦淫すること、悟りを開いたと嘘を言うこと。
 五逆:父殺し、母殺し、阿羅漢(悟りを開いた聖者)殺し、僧の和合を破ること、佛
    身を傷つけること。
2008/03/08(Sat)

第百十段 双六の上手といひし人に
 双六(スゴロク)の上手(ジヤウズ)といひし人に、その手立(テダテ)を問ひ侍り
 しかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾(ト)く
 負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目(ヒトメ)なりともおそく負くべき
 手につくべし」と言ふ。
 
 道を知れる教(ヲシヘ)、身を治(ヲサ)め、国を保(タモ)たん道も、またしかな
 り。
 
 ※
 双六名人といわれる人に、そのコツを聞いてみたところ、「勝とうと思わないこと。
 負けないように打つこと。負けそうな手を考えて、その手を使わずに、一目でも遅く
 負けそうな手を打つこと。」と言う。
 
 道を知った者の教え、身を修め、国を保つ道も、また同じだね。
 
 ※
 「ご隠居はん、相手の立場になって、どうすれば相手が勝てるのかを考えて、それを
 邪魔するように打つべきです。」
 「前段からそうだけれど、いったい何者や。何名人ですか?」
 「と、ここまでは素人のお話。」
 「なんだ?」
 「プロの棋士は、手を読まずに、盤面の美しさやバランスを見て打つそうです。」
 「あぁそれこそ身を修めて国を保つのに必要かもね。」
2008/02/26(Tue)

第百九段 高名の木登りといひし男
 高名(カウミヤウ)の木登りといひし男(ヲノコ)、人を掟(オキ)てて、高き木に
 登(ノボ)せて、梢(コズヱ)を切らせしに、いと危(アヤフ)く見えしほどは言ふ
 事もなくて、降るゝ時に、軒長(ノキタケ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心し
 て降りよ」と言葉をかけ侍(ハンベ)りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも
 降りなん。如何(イカ)にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候(サウラ)
 ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に
 成りて、必ず仕(ツカマツ)る事に候ふ」と言ふ。
 
 あやしき下臈(ゲラフ)なれども、聖人の戒(イマシ)めにかなへり。鞠(マリ)
 も、難(カタ)き所を蹴(ケ)出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。
 
 ※
 木登り名人と呼ばれる男が、人に指図して、高い木へ登らせ、梢を切らせたとき、危
 なっかしく見えるときには何も言わず、降りてきて、軒の高さまで来たとき、「慎重
 に。気をつけて降りろよ。」と言葉をかけたので、「そこまで来れば、飛び降りたっ
 て大丈夫でしょう。どうしてそんなふうに言うのですか。」と尋ねてみたところ、
 「そこですよ。目がくらんだり、枝が折れそうで危なそうなら、怖さのあまり慎重に
 なるので、何も言わないのです。失敗というのは、安全になったときに、必ず起こる
 ものなのですよ。」と言った。
 
 身分の低い者だけれど、聖人の戒めと同じ事を言っている。蹴鞠も、難しい所を蹴り
 出した後、楽になったと思へば必ず落としてしまうものなんだな。
 
 ※
 「ご隠居はん、フォロースルーのことですか。」
 「?」
 「絶好球がバットに当たった。そこで喜ばずに、最後まで振りぬけ。そうしないと凡
 フライになるぞ。」
 「いったい何者や。何の話や。」
 「いや、勝って兜の緒を締めろ、ですよ。」
 「最初からそれだけゆうてりゃよかったのに。」
2008/02/17(Sun)

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