週刊徒然草

〜 ご隠居はんとありおーの徒然草 〜

 

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第百四十八段 四十以後の人
 四十以後(シジフイゴ)の人、身に灸(キフ)を加(クハ)へて、三里(サンリ)を
 焼かざれば、上気(ジヤウキ)の事あり。必ず灸すべし。
 
 ※
 四十歳以上の人は、お灸の時に、三里にも灸をしなければ、のぼせることがある。忘
 れず灸をしよう。
 
 ※
 「ご隠居はん、という事は、前段の条件は四十歳以上だとかなりきついですね。ひょ
 っとして世代間抗争でしょうか。」
 「年よりは出しゃばるな!って。」
 「そんな気もしてきましたよ。どうなんでしょう。」
 
 三里:お灸のツボ。膝頭の下にある外側のくぼんだ所。
2009/04/25(Sat)

第百四十七段 灸治
 灸治(キウヂ)、あまた所に成りぬれば、神事(ジンジ)に穢(ケガ)れありといふ
 事、近く、人の言ひ出(イダ)せるなり。格式等(キヤクシキトウ)にも見えずと
 ぞ。
 
 ※
 灸による治療痕が、多くなってきたら、神事に差し障りがあると、近頃、人々は言い
 だした。そんな決まりは見たことがないのだが。
 
 ※
 「ご隠居はん、ちょっと調べてみたところ、痕が3つまでならいいけど、4つだとダ
 メってことだったらしいです。」
 「なぜそんな事になったんだと思う。」
 「最初は謂れのない迷信なのかとも思ったのですが、こういったことは権力闘争にも
 使えるんではないかと考えたらちょっと...」
 「権利や行動を制限する話があったら、冷静に考えないとね。」
 
 
 格式:格は法、式は施行令のような役割で、今でいえば法令というところでしょう
    か。類聚三代格と延喜式など。
2009/04/25(Sat)

第百四十六段 明雲座主
 明雲座主(メイウンザス)、相者(サウジヤ)にあひ給ひて、「己れ、もし兵杖(ヒ
 ヤウヂヤウ)の難(ナン)やある」と尋ね給ひければ、相人(サウニン)、「まこと
 に、その相おはします」と申す。「如何なる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害(シヤ
 ウガイ)の恐れおはしますまじき御身(オンミ)にて、仮(カリ)にも、かく思(オ
 ボ)し寄りて、尋ね給ふ、これ、既(スデ)に、その危(アヤブ)みの兆(キザシ)
 なり」と申しけり。
 
 果(ハタ)して、矢に当りて失せ給ひにけり。
 
 ※
 明雲座主が、人相見を訪ねて、「私には、もしかすると武器による禍の相が出ていま
 せんか」と聞いたところ、人相見は、「おっしゃるように、その相が出ています。」
 と答えた。「どんな相ですか」とさらに聞くと、「身に危険が及ばない御身分である
 にもかかわらず、もしや、と思って、訪ねてきたのは、これ、既に、危険の前兆であ
 ります。」と答えた。
 
 結局、矢に当たって死んでしまった。
 
 ※
 「ご隠居はん、死ぬのが怖い、死ぬのがわかった、なのに死から逃れられなかっ
 た。」
 「後悔していたのだろうか、それとも腹をくくったのかな。」
 
 
 明雲座主:(1115-1184)源顕通の子。詳しくはウィキペディアをご覧ください。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%9B%B2
 最高位僧であり、70歳近い高齢でありながら戦場で殺生を行い挙句に戦死って?
2009/04/18(Sat)

第百四十五段 御随身秦重躬
 御随身秦重躬(ミズヰジンハダノシゲミ)、北面の下野入道信願(シモツケノニフダ
 ウシングワン)を、「落馬(ラクバ)の相(サウ)ある人なり。よくよく慎み給へ」
 と言ひけるを、いと真(マコト)しからず思ひけるに、信願、馬より落ちて死ににけ
 り。道に長(チヤウ)じぬる一言(ヒトコト)、神の如しと人思へり。
 
 さて、「如何(イカ)なる相ぞ」と人の問ひければ、「極(キハ)めて桃尻(モモジ
 リ)にして、沛艾(ハイガイ)の馬を好みしかば、この相を負(オホ)せ侍りき。何
 時(イツ)かは申し誤りたる」とぞ言ひける。
 
 ※
 身辺警護役の秦重躬が、御所警護の下野入道信願を、「落馬の相が出ている。よくよ
 く注意すること。」と言ったことに、本当かなと思っていたところ、信願が、馬から
 落ちて死んでしまった。その道に長けた人の言葉、神の如しと人々は思った。
 
 のちに、「どんな相だったのですか」と人から訊ねられて、「とても乗るのが下手な
 のに、荒馬を好んでいたので、そんな相を負っていたのです。間違っていますか
 な。」と答えた。
 
 ※
 「ご隠居はん、どんな出来事にも予兆があって、それは見るべき人が見ればわかると
 いうことでしょうか。」
 「おっ、今日は最初から見方が深いね。最後の説明を聞いた人はみな納得しただろう
 からね、ほんの少しの違いを見抜けるかどうかだね。」
 「でも、結局救う事が出来なかった。」
 「なぜだと思う?」
 「ん...片や貴族共がなにを言うのかと思い、片や田舎武者がいい気になって、って
 思ってお互い反発していたってところかなぁ。」
 「そう、それは世が乱れる相が出ていたってことでもあるよね。」
2009/04/11(Sat)

第百四十四段 栂尾の上人
 栂尾(トガノヲ)の上人(シヤウニン)、道を過ぎ給ひけるに、河(カハ)にて馬洗
 ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止(ドマ)りて、「あな尊(タフト)
 や。宿執開発(シユクシフカイホツ)の人かな。阿字(アジ)阿字と唱(トナ)ふる
 ぞや。如何(イカ)なる人の御馬(オンウマ)ぞ。余りに尊(タフト)く覚(オボ)
 ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿(フシヤウドノ)の御馬に候ふ」と答へけり。
 「こはめでたき事かな。阿字本不生(アジホンフシヤウ)にこそあンなれ。うれしき
 結縁(ケチエン)をもしつるかな」とて、感涙(カンルヰ)を拭(ノゴ)はれけると
 ぞ。
 
 ※
 栂尾の上人が、道を歩いていると、河で馬を洗っている男が「あしあし」言っていた
 ので、上人立ち止まって、「あぁなんと尊い。宿執開発の人物だ。阿字阿字と唱える
 なんて。いかなる方のお馬ですか。大変尊く見えるのですが。」と尋ねたところ、
 「府生殿のお馬です。」と答えた。「これはめでたいことだ。阿字本不生に違いな
 い。有難い結縁に巡り合えた。」と、感涙を拭われたそうだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、年の...。」
 「ボケたとでも?」
 「そうは考えたくないので、どんな些細なことにでも有難いと思えるような心持で生
 きていくことが大切。とかどうでしょう。」
 「どうでしょうって。」
 「傍目にはボケてるんですが。」
 「それだと、口に出さない方がよさそうだね。」
 
 
 栂尾の上人:明恵上人(みょうえしょうにん・1173〜1232)華厳宗の僧。
       1206年後鳥羽上皇より京都にある栂尾山を賜り、高山寺を復興。
 府生   :検非違使の役人。
 宿執開発 :前世での善根、功徳が現世で花開く、ような意味。
 阿字本不生:阿字(宇宙や人生における全ての現象)は不生不滅という考え。
 
 ん?無常とは正反対?
 まぁ仏教用語はよくわかりませんので、詳しくはお調べください。
2009/04/04(Sat)

第百四十三段 人の終焉の有様のいみじかりし事など
 人の終焉(シユウエン)の有様(アリサマ)のいみじかりし事など、人の語るを聞く
 に、たゞ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚(オロ)かなる人は、あ
 やしく、異(コト)なる相(サウ)を語りつけ、言ひし言葉も振舞(フルマヒ)も、
 己れが好む方(カタ)に誉めなすこそ、その人の日来(ヒゴロ)の本意(ホンイ)に
 もあらずやと覚ゆれ。
 
 この大事(ダイジ)は、権化(ゴンゲ)の人も定(サダ)むべからず。博学(ハクガ
 ク)の士も測(ハカ)るべからず。己れ違(タガ)ふ所なくは、人の見聞くにはよる
 べからず。
 
 ※
 臨終の様子をあれこれと、語っているのを聞くと、ただ「安らかに眠っているようだ
 った」と言えば十分なのに、愚かな人は、不思議で、怪奇な事が起こったと語った
 り、故人の残した言葉や振る舞いを、自分の好むように脚色して誉めそやしたりする
 のだけれど、故人の日ごろの想いとは違っていると思うのだけれどね。
 
 人の死というものは、仏の化身でもわからない。博学の者が推測すべきものでもな
 い。思い残すところがなければ、他人がどうこう言うべきではないのだよ。
 
 ※
 「ご隠居はん、すいません。前半、後半がどうしても繋がりませんでした。これも無
 常。」
 「いや、違うがな。変なごまかしをせんと、どの辺りが繋がらないのか言ってみなさ
 いな。」
 「奇怪なことを語るなと言いながら、仏の化身って。」
 「そこかいな。例えなんだから、そういうところは流しなさいな。」
 「では、気を取り直して。思い残すところがないように、いつもの兼好さんです
 ね。」
 「そうそう、人の世ははかないよ、と。そこが無常なんだよ。」
2009/03/28(Sat)

第百四十二段 心なしと見ゆる者も
 心なしと見ゆる者も、よき一言(ヒトコト)はいふものなり。ある荒夷(アラエビ
 ス)の恐しげなるが、かたへにあひて、「御子(オコ)はおはすや」と問ひしに、
 「一人(ヒトリ)も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、もののあはれは知り給は
 じ。情(ナサケ)なき御心(ミココロ)にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故(ユ
 ヱ)にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩
 愛(オンナイ)の道ならでは、かゝる者の心に、慈悲(ジヒ)ありなんや。孝養(ケ
 ウヤウ)の心なき者も、子持ちてこそ、親の志(ココロザシ)は思ひ知るなれ。
 
 世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂(ヘツ
 ラ)ひ、望み深きを見て、無下(ムゲ)に思ひくたすは、僻事(ヒガコト)なり。そ
 の人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子(サイシ)のため
 には、恥(ハヂ)をも忘れ、盗(ヌス)みもしつべき事なり。されば、盗人(ヌスビ
 ト)を縛(イマシ)め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑(ウ)ゑず、寒からぬ
 やうに、世をば行(オコナ)はまほしきなり。人、恒(ツネ)の産(サン)なき時
 は、恒の心なし。人、窮(キハ)まりて盗みす。世治(ヲサマ)らずして、凍餒(ト
 ウタイ)の苦しみあらば、科(トガ)の者絶(タ)ゆべからず。人を苦しめ、法(ホ
 フ)を犯さしめて、それを罪(ツミ)なはん事、不便(フビン)のわざなり。
 
 さて、いかゞして人を恵(メグ)むべきとならば、上(カミ)の奢(オゴ)り、費
 (ツヒヤ)す所を止(ヤ)め、民を撫(ナ)で、農を勧めば、下(シモ)に利あらん
 事、疑ひあるべからず。衣食尋常(イシヨクヨノツネ)なる上(ウヘ)に僻事せん人
 をぞ、真(マコト)の盗人とは言ふべき。
 
 ※
 心ないように見える者でも、よいことを言う事がある。
 
 ある、荒くれ武者の厳ついのが、横にいた仲間に、「子がいるか」と聞いたところ、
 「一人も居らん」と答えたので、「ならば、人情の機微は分からないだろう。情の無
 い心の持ち主だと思えば、付き合うのが怖いな。子供がいるからこそ、人情の機微が
 わかるってもんだからな。」と言ったのだが、ありそうな話だ。家族愛でもなけれ
 ば、こんな者たちの心に、情けやあわれみの心なんて生まれる筈がないものな。孝行
 の気がない者も、子どもができると、親の気持ちがわかるってものだ。
 
 私のように、孤独を選んだ者が、色々と、しがらみの多い人のことを、何にでも諂っ
 て、欲深いと、見下すのは、間違いだ。その人の気持ちになって考えれば、心から、
 愛すべき親のため、妻子のためにと、恥を忘れ、盗みを働く事だってあるだろう。だ
 から、犯罪者を捕まえて、罪を罰するよりは、人々が飢えず、寒さをしのげるよう
 に、政治を行うべきだ。人というのは、安定した生活がなければ、平常心を保てなく
 なる。人は、追い詰められて罪を犯す。世の中が乱れ、困窮すると、犯罪者が増え
 る。人を苦しめておきながら、法を犯したからと、罪を問うというのでは、能がなさ
 すぎる。
 
 さて、どうすれば人々が豊になるかと言えば、上が贅沢、無駄遣いを止め、人々をい
 たわり、経済を発展させれば、下に利がもたらされるのは、疑いようもない。衣食が
 足りた上で悪事を働く者こそ、真の犯罪者というべきだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、我々は荒くれ武者ではないので...」
 「みなまで言うな。」
 「兼好さんも言いたい放題ですね。独身者が聞いたら気を悪く...というか兼好さん
 も心の機微がわからんというか、全てを捨てているからそうなのか。」
 「ははは。でもね、子どもが居れば”必ず”情がわかるとは言ってないからね。」
 「ナイス!と言えないフォローですね。そんな人は病んでいるというべきか...」
 「いや、そういう人もいるだろうけど、情があっても困窮すれば非情な事もするとい
 うことだよ。」
 「なるほど、あらゆる問題の解決への第一歩は、所得が増えるってことなのは、今も
 昔も同じなんですね。」
 「景気、これもまた無常。」
2009/03/21(Sat)

第百四十一段 悲田院尭蓮上人は
 悲田院尭蓮(ヒデンヰンノゲウレン)上人は、俗姓(ゾクシヤウ)は三浦(ミウラ)
 の某(ナニガシ)とかや、双(サウ)なき武者(ムシヤ)なり。故郷(フルサト)の
 人(キタ)の来りて、物語(モノガタリ)すとて、「吾妻人(アヅマウド)こそ、言
 ひつる事は頼(タノ)まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実(マコト)なし」
 と言ひしを、聖、「それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴
 (ナ)れて見侍るに、人の心劣(オト)れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔(ヤハ
 ラ)かに、情(ナサケ)ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否(イナ)び難(ガ
 タ)くて、万(ヨロヅ)え言ひ放(ハナ)たず、心弱くことうけしつ。偽(イツハ)
 りせんとは思はねど、乏(トモ)しく、叶(カナ)はぬ人のみあれば、自(オノヅ
 カ)ら、本意(ホンイ)通(トホ)らぬ事多かるべし。吾妻人(アヅマウド)は、我
 が方(カタ)なれど、げには、心の色なく、情(ナサケ)おくれ、偏(ヒトヘ)にす
 ぐよかなるものなれば、始めより否(イナ)と言ひて止みぬ。賑(ニギ)はひ、豊
 (ユタ)かなれば、人には頼まるゝぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声う
 ち歪(ユガ)み、荒々(アラアラ)しくて、聖教(シヤウゲウ)の細やかなる理(コ
 トワリ)いと辨(ワキマ)へずもやと思ひしに、この一言(ヒトコト)の後(ノ
 チ)、心にくゝ成りて、多かる中(ナカ)に寺をも住持(ヂユウヂ)せらるゝは、か
 く柔(ヤハラ)ぎたる所ありて、その益(ヤク)もあるにこそと覚え侍りし。
 
 ※
 悲田院の尭蓮上人は、俗姓を三浦何とかという、とても強い武者だったそうだ。故郷
 の人が来たので、世間話をしていると、「関東の人は、言ったことを信じられるが、
 都の人は、人当たりはいいが、信じられない。」と言われたので、聖は、「あなたは
 そう思うかもしれないが、私は都に長く住んでいるので、馴れた立場で見てみると、
 人の心が劣っているようには思われない。みんな、心優しく、情があるため、人の頼
 みを、断りがたく、言いたいことを言えず、つい聞き入れる。嘘をつこうとは思って
 いないけれど、力なく、出来ない人が多いから、結局、思い通りにならないことが多
 くなってしまっているのではないか。関東の人は、私もそうだけれど、人の気持ちが
 分からず、情けも薄く、どうにもならないと思えば、最初から出来ないとあきらめて
 しまう。陽気で、羽振りがよさそうだから、当てにされているだけさ。」と弁護して
 いるのを聞いて、この聖のことを、声はしゃがれ、荒々しくて、仏の教えの細やかな
 部分など理解もできないだろうと思っていたのに、この一言を聞いてから、一目置く
 存在になり、大勢の中から住持を任せられるのは、こんな優しいところがあるから、
 その役にあるのだと思ったものだ。
 
 ※
 「ご隠居はん、兼好さんもひどいですね。見かけだけでレッテル貼るなんて。」
 「まぁそれも都の人の特性なんじゃないだろうか。」
2009/02/11(Wed)

第百四十段 身死して財残る事は
 身(ミ)死して財(タカラ)残る事は、智者(チシヤ)のせざる処(トコロ)なり。
 よからぬ物蓄(タクハ)へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止(ト)めけんとは
 かなし。こちたく多かる、まして口惜(クチヲ)し。「我こそ得(エ)め」など言ふ
 者どもありて、跡(アト)に争ひたる、様(サマ)あし。後(ノチ)は誰(タレ)に
 と志(ココロザ)す物あらば、生けらんうちにぞ譲(ユヅ)るべき。
 
 朝夕(アサユフ)なくて叶(カナ)はざらん物こそあらめ、その外(ホカ)は、何も
 持たでぞあらまほしき。
 
 ※
 死ぬときに財産が残っているというのは、智者のすることではない。つまらないもの
 を残すなんて愚かだし、いい物だったら、未練を感じて情けなく思う。やたら沢山あ
 るのでは、一層情けない。「私が貰っておきましょう。」などという者等が出てき
 て、死後争うことになるなんて、なんて無様だ。死後誰かに託したいと思う物がある
 なら、生きているうちに譲るべきだね。
 
 生活に必要な物だけあればいい、その他は、何も持たずに生きていたい。
 
 ※
 「ご隠居はん、自分が死んだらあんな物やこんな物を持っていたのかと笑われそうで
 す。」
 「何かなそれは。」
 「ご隠居はんも人のことは笑えないでしょう?」
 ゴホゴホ
 「でも、兼好さんチョット考え過ぎかも。心を止めているのではなく、忘れているっ
 てこともあると思うのです。」
 「物があふれる今だからそう思うのだよ。」
2009/02/01(Sun)

第百三十九段 家にありたき木は
 家にありたき木は、松・桜。松は、五葉(ゴエフ)もよし。花は、一重(ヒトヘ)な
 る、よし。八重桜(ヤヘザクラ)は、奈良の都にのみありけるを、この比(ゴロ)
 ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近(サコン)の桜、皆、一重(ヒトヘ)に
 てこそあれ。八重桜は異様(コトヤウ)のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植
 ゑずともありなん。遅桜(オソザクラ)、またすさまじ。虫の附(ツ)きたるもむつ
 かし。梅は、白き・薄紅梅(ウスコウバイ)。一重なるが疾(ト)く咲きたるも、重
 (カサ)なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし。遅き梅は、桜に咲き合ひて、覚
 え劣り、気圧(ケオ)されて、枝に萎(シボ)みつきたる、心うし。「一重なるが、
 まづ咲きて、散りたるは、心疾く、をかし」とて、京極入道中納言(キヤウゴクノニ
 フダウチユウナゴン)は、なほ、一重梅をなん、軒(ノキ)近く植ゑられたりける。
 京極の屋(ヤ)の南向きに、今も二本(フタモト)侍るめり。柳、またをかし。卯月
 (ウヅキ)ばかりの若楓(ワカカヘデ)、すべて、万(ヨロヅ)の花・紅葉(モミ
 ヂ)にもまさりてめでたきものなり。橘(タチバナ)・桂(カツラ)、いづれも、木
 はもの古(フ)り、大きなる、よし。草は、山吹(ヤマブキ)・藤(フヂ)・杜若
 (カキツバタ)・撫子(ナデシコ)。池には、蓮(ハチス)。秋の草は、荻(ヲ
 ギ)・薄(ススキ)・桔梗(キチカウ)・萩(ハギ)・女郎花(ヲミナヘシ)・藤袴
 (フヂバカマ)・紫苑(シヲニ)・吾木香(ワレモカウ)・刈萱(カルカヤ)・竜胆
 (リンダウ)・菊。黄菊(キギク)も。蔦(ツタ)・葛(クズ)・朝顔。いづれも、
 いと高からず、さゝやかなる、墻(カキ)に繁(シゲ)からぬ、よし。この外(ホ
 カ)の、世に稀(マレ)なるもの、唐めきたる名の聞きにくゝ、花も見馴(ナ)れぬ
 など、いとなつかしからず。
 
 大方(オホカタ)、何(ナニ)も珍(メヅ)らしく、ありがたき物は、よからぬ人の
 もて興ずる物なり。さやうのもの、なくてありなん。
 
 ※
 庭に植えたい木と言えば、松と桜。松は、五葉松もいいな。花は、一重の方が、よ
 い。八重桜は、奈良の都にだけあったものを、最近では、あちらこちらで見られるよ
 うになった。吉野の花も、左近の桜も、どちらも一重のはずだ。八重桜は好きじゃな
 い。うっとうしくて、あり得ない。植え無くてもいいのに。遅桜も、嫌なものだ。
 虫が付くのも最悪。梅は、白い薄紅梅。一重のものが一面に咲くのも、重なるように
 咲いた紅梅が香ってくるのも、どれもいい。遅い梅は、桜と咲き比べられると、見劣
 りし、まるで気圧されて、枝にしがみ付いているようで、情けない。「一重の花が、
 さっと咲いて、散ってしまうのは、清々しくて、いいものだ。」と、京極入道中納言
 は、やはり、一重の梅をね、軒近くに植えられたそうだ。京極の屋敷の南向きに、今
 も二本植わっている。柳もまた、いいもんだ。卯月の頃の若楓は、どんな花や紅葉よ
 りも優って素晴らしいものだね。橘に桂、どちらも、古くて、大きいほうが、よい。
 草といえば、山吹、藤、杜若、撫子。池には、蓮。秋の草は、荻、薄、桔梗、萩、女
 郎花、藤袴、紫苑、吾木香、刈萱、竜胆、菊。それに黄菊もあるな。蔦、葛、朝顔。
 これらは、そんなに高くない、ささやかな、垣に沢山茂っていない方が、よい。これ
 以外の、めずらしいもの、中国風の名を聞きなれないもの、花も見慣れないものなん
 て、どうでもいいんだな。
 
 大抵の場合、珍しくて、希少な物なんて、センスのない人が持って喜ぶもの。
 そんなもの、なくてもいいのに。
 
 ※
 「ご隠居はん、お久しぶりです。」
 「えっ?毎週会ってるけどね。」
 「庭に植えたい木と言えば!」
 「!?」
 「花が咲いて実が生るものがいいなぁ。いいなぁというかそういう物しか植えていま
 せんが。」
 「あらら、それでは兼好さんが嘆く方に入ってるよ。」
 「いや、兼好さんも花見て一杯やってますよ。」
 「ところで、この段もちょっと見方を変えて見てはどうだろう。」
 「この段をですか?それはまた難しい...」
 「二つの都、唐趣味、見慣れる花。」
 「え...まぁ...。」
 
 吉野の花:ソメイヨシノとは関係ないらしい。
 http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-yamazakura.htm
 
 左近の桜:紫宸殿の向かって右側に植えられた桜。右近の橘。ひな人形も同じです
      ね。
 
 京極入道中納言:藤原定家のこと。
2009/01/25(Sun)
Re1:第百三十九段 家にありたき木は
 徒然草と直接関連は無いけれど、今日のニュースに藤原定家に関する記事がありまし
 たので載せておきます。
 
 藤原定家自筆の書状がみつかったそうです。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090403-OYT1T01064.htm
2009/04/04(Sat)

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